「鬼滅の服飾学」余滴①:大正初期の人々の服装のことなど

『SPUR』2021年8月号(6月23日発売)に「鬼滅の服飾学」と題する対談記事が掲載された。スタイリストの飯嶋久美子氏との対談である。私が服飾史の研究者であることからご依頼をいただき、とはいえ、例えば禰豆子の着物の「麻の葉文様」の由来などは専門外であるため、対談に先立ち、いろいろ勉強する良い機会にもなった。

対談記事は見開き1ページと短い。十分に説明を尽くせなかった点や準備していたことで盛り込めなかった部分も少なくないので、どれだけ需要があるかは分からないが、「余滴」として、何回かに分けて書いていきたい。

以下、本題。

「鬼滅の刃」の服装の魅力の一つに、大正時代という大まかな時代設定の中で、作者独自の創作によるスタイル(=実際にはありえないもの)が、様々な和洋折衷的スタイルが誕生したこの時代だからこそ「もしかしたらありえたかもしれない」と思えるものとして違和感なく登場するということがあるように思う。という話を始めるための前提として、まず、「鬼滅の刃」の時代設定について確認しておこう。

「鬼滅の刃」の舞台は大正時代であるとコミック各巻の冒頭で説明されている。さらに、以下三点から、おそらく大正初期と推定される(*1)。

①アニメ第4話の藤襲山の手鬼の台詞:「47年前、江戸時代、慶応の頃、鱗滝がまだ鬼狩をしていた頃」→慶応年間は1865年から1868年。手鬼の台詞をもとに計算すると、炭治郎たちが存在しているのは1912年(明治天皇が7月30日に崩御したためそれ以前は明治45年でそれ以後は大正元年にあたる)から1915(大正4)年の間ということになる。
②同じくアニメ第4話における手鬼に対する炭治郎の台詞:「今は大正時代だ」→改元直後は新元号にそこまで馴染みもないだろうから、咄嗟にこのような発言はしないのではないか。→1912年7月の改元からややタイミングを置いた時期ではないか。
③アニメ第7話で浅草の凌雲閣(別名「浅草十二階」)【図1】が登場する→凌雲閣は大正12(1923)年9月1日の関東大震災で倒壊。→炭治郎たちが存在しているのは大正12(1923)年9月1日以前である。
※対応するコミックの巻話は後日追記する。

画像3

図1:浅草公園四区の大池ごしに凌雲閣をとらえた絵葉書

以上のことを確認した上で、大正初期の人々の服装の特徴をざざざっと挙げてみると次のようになる。

・全体として見ると、まだまだ和装から洋装に移行したとは言えない時代。
・男性の間では、都市部を中心に、職業によっては仕事着として洋服(スーツ)が普及。役人、会社員、教師など。
・他に、軍人、警察官、鉄道職員、郵便配達員などは洋服式の制服を着用。
・仕事着として洋服を着ている人も家では浴衣などの和服。
・仕事着として洋服を着ない人も、式典などに洋服(フロックコートやモーニング)を着ていくことはあった。
・仕事着として洋服を着ない人も、着物の上に防寒のためインバネスコート【図1】を羽織ったり着物の下にシャツを着込んだり頭に帽子を被ったり、部分的に洋服のアイテムを取り入れていた。
・女性の間では、一握りの上流階級を除き洋服はまだ普及していない。
・ただし、着物の上にショールを巻いたり髪型だけ洋風の結い髪にしたりアール・ヌーヴォー調の着物の模様【図2】が登場したり、女性の和装にも部分的に洋風な要素が取り入れられていた。
・都市部とそれ以外の地域の違いに注意が必要。
・現在の私たちが「大正モダン」としてイメージする服装(例:洋服を着て短く切った髪にクロシェ帽を被った女性)は大正末から昭和初期にかけて流行ったもので大正初期のものではない。

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図2:インバネスコート(当時は「トンビ」と呼ばれた)

図1

図3:1914(大正3)年に三越が売り出したアール・ヌーヴォー調の裾模様

他にも挙げればきりがないが、大まかなイメージを描くために重要なポイントはだいたいこんな感じである。まだまだ和装が生活に深く根付いているところに、様々な形で洋風な要素が入り込み、和洋どちらにも分類できない雑多さがあった。

話を「鬼滅の刃」に戻して、以上のような大正初期の人々の服装の特徴は、例えば、コミック第2巻13話と14話の炭治郎たちが浅草を訪れるシーンのモブキャラとして描かれる大衆の雑多な服装において(第13話の表紙の次のページから数えて9ページ目下段「翌々日浅草」というコマなど)、また、このシーンで初めて登場する珠世(洋風の着物の模様)と愈史郎の服装(着物の下にシャツ)において、よく再現されている。

ちなみに、コミック第2巻13話と14話に対応するアニメ第7話では、原作に描かれていない洋装の女性がモブキャラとして何人か登場し、この頃の女性の洋装の普及状況(*2)からしてあまり正確な描写でないように思うのだが、おそらく、単純な見栄えの都合で追加されたものだろう(*3)。

蛇足ながら、『SPUR』の対談で、「服装が一番印象に残っているキャラクターは?」という司会の方の質問に対し「珠世と愈史郎」と答えたところ、非常に微妙な空気が流れたので、確か、慌てて、「無惨と魘夢も印象的だった」と付け足したのだった。さらに付け加えておくと、一番服装が好きなキャラクターは時透無一郎である。

*1:「鬼滅の刃」の時代設定については、「泉国」氏が運営するブログ「鬼滅の泉」の2020年2月29日の記事で既に考察がなされている(https://kimetsu-i.com/jidaisettei-taisyou-nannnenn/)。
*2:民俗学者の今和次郎が1925(大正14)年初夏の東京銀座で行った調査によると、女性の通行人に占める洋装の割合はたったの1%で、残りの99%は和装だった。流行の最先端の街でこの数字ということは他ではもっと少なかったと考えられる。これより10年ほど前の大正初期となると、雑踏で洋装の女性をちらほら見かけるというようなことはなかっただろう。詳しくは、今和次郎『考現学入門』ちくま書房、1987年、p. 106、p. 124を参照。
*3:無惨の妻(偽装)の洋装についてはまた別の機会に。
図1:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%9B%B2%E9%96%A3#/
media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Jintan_12kai.jpgより
図2:辻清『洋服店の経営虎の巻』洋服通信社、1926年より
図3:『三越』1914年10月号より

編集の記録:
2021年7月5日 本文8段落目(終わりから3段落目)の「珠世(洋風の着物の模様と髪型は「耳出し」)」を「珠世(洋風の着物)」に変更。大正初期の女性に最もよく見られたのは「廂髪(ひさしがみ)」と呼ばれた大きな膨らみのある洋風の結い髪で、「耳出し」とは異なるスタイルであるため、「珠世の髪型にも大正初期の人々の服装の特徴がよく再現されている」と言ってしまうことには語弊があると判断し、このように変更。


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