第65回CWAJ現代版画展

《第65回CWAJ現代版画展》

会期: 10月19日(水)~10月23日(日) 
会場: ヒルサイドフォーラム

※CWAJ 現代版画展オンラインギャラリー
(10月25日9:00 am~10月30日18:00 pm)
URL: https://cwaj-gallery.jp



長沼翔の作品を観に行って、花藤加奈と畠中彩の作品に、新たに出会って帰って来た。

兎角、値札の付いた画を観に行くと、ろくでもないことになってしまう。

買わない理由を揃える為に、作品の欠陥を手当たり次第にかき集め、買えない理由を揃える為に、自分の経済を洗いざらい見直したところで、後悔しない唯一の方法は、生活の中に取り込んでしまうより他にはない。


例えば、音楽。

最高の舞台、ライヴに接した実体験が、全くない訳でもないのだけれども、レコードとして、それも、データをストリーミングやダウンロードで愉しむのではなしに、LPなりCDなりのカタチのあるモノを通じて聴くのが、遥かに好きだ。

それは、音楽が好きなのではなくって、モノを集める、モノを買う、モノとしての音楽への執着が、自分の中に根深くある様に思われる。

立派な精神がものともしないところに、心が搦め捕られてある。

強いて美化して言えば、モノをものともする業だけが、私という人間の知覚を育み、審美を担保している。

そういう性分だからなのだろうか、画に関しては、版画という表現形態に、多く惹かれるものがある。

版画は、市井人が容易にアクセス出来る画像として、長いこと主戦場であったのが、今では、印刷や写真、デジタルデータにすっかり役目を譲って、専ら、比較的所有しやすいアート、或いはインテリアとして、モノに徹してある様だ。

それは、持つという欲望に対する、自制心のなさが相当数含まれるとして、モノのあり方としても、回りくどいプロセスを辿ることによって、作家の創造の生々しさが幾分か霞んだ所に、受け手が付け入る余地が多分にある事も、引き寄せられる一因ではなかろうか。

ある種、所有されるという事を、最も自覚した形態として、版画は作家からも所有者からも独立した自我を持っている。

音楽をライヴでもデータでも済ませられない、モノともする人の性に、これ以上、お誂え向きな画像というものもないだろう。


一期一会ではない反復性の内にこそ、初めて認められらる美というものが、持ち物にはしばしば宿る。

それは、記憶が想い出によって浄化されるのを尻目に、常に傍らで冷淡にあり続けるモノとして、飽きてうんざりさせられ、容易には美化も出来ない現実を突き付ける。

モノと持ち手の関係性には、そうやって、作家も介入の余地がない腐れ縁が芽生えて、その醜悪こそが美しいという具合になって来る。

カタチあるモノとして、僕らの日常生活を圧迫する。

空間を蝕み、対峙すれば時間を奪う。

そういう厄介者を受け入れる為に自ら散財する事が画に対する適正な距離感だ、と言ったら、市井の常識からは外れてしまうのかも分からない。

多くのアーティストが直面している困難が作品が売れないという現実だとしたら、それははっきりしていて、常識がないのに市井を相手にするからだ。

今回、出会った作品は、そういう非常識なモノではなかったのかも知れないけれども、バーチャルとシェアが画の主戦場となるだろう世の中にあっては、版画をやるという事自体が既に狂気じゃないか。

長沼翔さんも、花藤加奈さんも畠中彩さんも、例外なくInstagramに作品をアップしているから、作品を観るのはとても容易で、その画像を観るためだけに、こちらもInstagramのアカウントを取得し、フォローもしている。

作品の記憶を呼び覚ます機能としては、カタログよりも余程優秀であるし、実物を観た印象よりも画像の方が鮮烈な事だって少なくない。

そこには、わざわざ版画の技巧を駆使した上で、デジタルデータ化した画像こそが、作品の最終形態となり得る未来を予見したっていいだろう。

その制作過程で生まれた副産物としてのプリントを、容易に破棄する時代が来るかは分からない。

或いは、肉食が禁忌となれば皮革製品も廃れようか。

版も盤も、既にモノである必然のない時代にあって、廃れ行くモノへの同情から、僕らがカタチへと却って惹き付けられているのだとしたら、それは肉体を持つ知性の気質が出ている気がして、皮肉というよりは、いっそ、骨髄じゃああるまいか。


花藤加奈の作品は、作家の意図を超えてとんでもないものが出来てしまった、そんな予期せぬ造形の優美さが見えて、心を鷲掴みにされてしまった。

画題も技巧も必ずしも好みではなかったのだけれども、構図と色彩が圧倒的で、どう見定めても、詰まらない作品と映ってくれない。

しかも、カタログもInstagramも、自分の眼とは捉え処が違っていて、どんな作品かは、実物よりも複写された画像の方が分かりやすくて、まずい事になってしまった。

複製が正体を暴くなら、現物で正体をもう一度埋葬してやらねば、自分を鷲掴みにしたモノの本性は、程なく、闇に葬られてしまうだろう。

見損なう余地のあるモノを見損なうリアルが、リアリズムによって奪われる事に耐えられない。

墓標は、暴くものではなく、依代となるべきものだ。


他方、畠中彩の作品は、全く好きな画題に好きな技法で、寸分の過不足もないものだったから、一目、心を奪われて、あざとさに気が付く暇がない。

どこか既視感があって、目新しさはないし、こういう作品は、腕が立つ作家なら、幾らでも量産出来てしまうのだろうと分かったところで、ここらで一度総括を、手打ちにしておくべき潮時が来たのだと承知した。

それは、最上のモノとの遭遇というよりは、経済の話であって、ある種の博打に他ならない。

買ってしまえば、急に詰まらなくなるかも知れない、極上の風が、更なる上物をあっけらかんと連れて来る事もしばしばだ。

それでも、少なくとも、今回、展示されていたエディション・ナンバー3は、背景の陰影が極まっていた。

柔らかく静かに時は独り止まっている。

メゾチントが目指す世界は、多かれ少なかれ、侘しさが付き纏う。

そこに逃げ込むのは、寧ろ容易く、居心地が好いものだ。

そうやって、雰囲気に呑み込まれれば、画題はじわじわと内側から腐って逝く。

メゾチントに限らずとも、画を買う醍醐味は、腐らない光を如何に捉えるかにあるかも知れない。

光を捉える作品には、決まって、空気が描かれている。

僕らが平生、空気を読むと言う時に、それが意味しているのは、雰囲気の方かも分からないけど、読むべき空気は陰影であって画題じゃない。


どんなに気に入って買った画であろうが、持てば必ず飽きが来る。

それは、厭きると書いた方が、より正確で、掛け替え時とも言うべきものだ。

掛け替えのない自分の人生に比べると、モノには残酷なくらい掛け替えがありふれてある。

持てば持つだけ、掛け替えは、余計に必要になって来る。

それに耐えるのは、ヒトの方なのか、モノの方なのか、容易には計れない。

掛け替えのあるモノを、ものともすれば、掛け替えがきかない人生をものともせずに泰然とある世界が見えて来る。

そのモノとヒトとの関係性こそが美しさの正体であると、美術史や美学が認めてくれるものかは知らないけれども、市井の実生活においては明らかで、とても現金なものがある。

現金で明らかなものに、アートというヴェールを纏わせてうやむやにする事が、アーティストの仕事なのだとしたら、それは困った事になるに決まっている。

掛け替え可能な、ありふれたモノとして、飽きられる事に耐え抜く画。

そういう力感のある作品が、私は好きだ。

替えられてもまた掛けられるという事。

替えてもまた掛けるという事。

そういう力が作品にあるかは、関係性の問題だから、買ってみない事には分からない。

初めからお蔵になってしまう画も少なくない。

特別に観に行くモノ、必要な時だけシェア出来るモノ、いやが上にも生活に組み込まれてあるモノ、使い捨てられるモノ、忘れ去られるモノ、思い出されるモノ。

版画なんて、お互いに、一番不経済で能率が悪い、最悪なコスパを選ぶ道かも知れないな。

当初の使命を終えた発明品には、何時だって、モノの憐れが付き纏う。

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