演奏会:芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会
2021.8.28
サントリーホール大ホール
現代音楽作家というのは、勿論、音楽家でなければならないのだけれども、等しく、思想家でもなければ務まらない、そんな思いが強かった。
かつて、ハンス・フォン・ビューローは、ベートーヴェンの交響曲第9番を聴衆に理解させる為に、演奏会場の扉に鍵まで掛けて、誰もが逃げ出せない様にした上で、第九を二度、演奏したそうだ。
これは、今日では笑い話というか、悪い冗談として語られ勝ちであるけど、昨日の選考会を聴いていて、あながち、ビューローの気持ちも解らないでもない気がした。
勿論、無理やり聴かせよう、なんて話ではなくて、これは、少なくとも、それぞれの曲を二度は聴かないと、とても耳が追い付けないし、出来たら三回聴かせて欲しい、と真剣に思ったからだ。
ノミネートされた三人の作品は、それぞれにキャラクターが全く違っていて、ご本人が書かれた解説から受ける印象と、実際に出て来た音楽とのギャップも大きかったり、小さかったり、三様だ。
取り分け、作曲賞の受賞が決まった作品の性質は強烈で、コンテンポラリーという感じがしなかった。
そこで取られている手法自体は、選考委員の弁によれば、必ずしも新機軸を示すものではなかったらしいのだけれども、ベートーヴェンの音楽然として、聴衆の頭上を越えていく、先進性を帯びている。
何より印象深かったのは、壇上に上がった作曲者の受賞スピーチが、作品の語り口とも解説の口調とも、いよいよ掛け離れていた事で、その一点をもって、全ての辻褄が合ってしまった気がした。
あの得体の知れない鋭敏な音に、ただただこちらは黙って耳を傾けるしかなった音楽は、全く、この人が書いたに違いない、そんな風に思われた。
現代作家の不幸は、聴衆に顔が見えない事なんだ、と。
こんなにも、コンセプトを明確に打ち出して、情報も十二分に発信し得る世の中なのに、否、そういう社会であればこそ、その人が見えなければ、作品も聴こえて来ない、という事になる。
本来、現代音楽は、古典に比べて、遥かに僕らの身近にあるものの筈なのに、とても遠くに感じられるのは、それだけ作家自身の内的な動機に音楽が深く根差しているからで、古典に比べて難しい手法を取っているから、という訳でもなさそうだ。
良いとか悪いとか、そういう意味ではないのだけれども、現代の音楽シーンの最大の特色は、主役は作家であり、脇役が演者、聴き手は傍観者に近いもの、という事にあると思う。
それを始めたのがベートーヴェンだったのかバッハだったのかは、分からないし、もっと古くからあったムーブメントでも不思議もないのだけれども、そういう作家が音楽の歴史の基軸となる様に、現代の音楽史観は組み立てられている。
勿論、そんな言い分は、素人の素朴な感覚だから、正しい歴史観、音楽観でもないだろうし、単に、僕らが作家の想定した聴き手には当たらない、というだけの事でもある。
少し、意地悪な言い方をすれば、選ばれた人達が、選ばれた人達へ向けて取り組まれるもの、それがコンテンポラリーという事になっている。
僕らは、蚊帳の外にいる。
もっと言えば、僕らのために音楽を書く義理など、作家の方にはないのが当たり前ではあるまいか。
だから、本当に事件なのは、現代音楽が遠くにある事よりも、モーツァルトの音楽が、まるで身近に感じられてしまう、そんな錯覚を抱いて平然と所謂クラシカルな音楽を聴いている、という事の方にある。
何時だって、遠くにあるべきものが、いつの間にか、普段使いとすらなっている。
コンテンポラリーとは、案外に、こちらの作用の事を指すのではあるまいか。
芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会を聴きに行った元々の目的は、いつもnoteを拝見させて頂いている、稲森安太己さんの音楽が、この選考会の委嘱作品として初演されるのを聴く事だった。
けれども、それぞれのノミネート作品は勿論、勢い、受賞作を決める為に公開で交わされた選考委員の選評に至るまで、面白くって仕方がない。
◎杉山洋一:『自画像』 オーケストラのための (2020)
一番、作品の意図が汲み取れて聴けたな、と感じたのか、杉山洋一さんの自画像。
寧ろ、意図的に僕らにも解る様に書いている。
だからこそ、専門家には不可解にも映るのではあるまいか、そんな気がする。
そして、分かれば聴くのが辛くなる様にも書かれているから、聴いているのが辛くて辛くて、音楽というよりは、モニュメントという感じを受けた。
死者の一人一人の顔まで見えてしまいそうな、いたたまれなさがある。
◎原島拓也:『寄せ木ファッション』 琵琶とオーケストラのための (2020)
原島拓也さんの作品は、一番聴きやすくって、専門的な事は解らないけれども、音がカラフル。
音による寄木細工というよりも、寧ろ、プロジェクトマッピングという気がした。
どこか溌剌とて爽やかで、心なしかとてもニュートラルにも思える幻影。
それは、作者が若いから、というのも大きいのだろうけれども、創作のコンセプトが、他の作品に比べても、ポップさを包含していたからではないのかな、と思う。
この音楽は、聴いて難しい事を考える事の方が、逆に困難だった。
肉体的に、違和感なく響いて来る。
だから、現代音楽らしくない。
選評に、連想される作曲家として、プロコフィエフの名前が上がっていたけど、私が連想したのは、エネスクだった。
専門家の意見と、素人の印象との違いがよく出ていると思う。
この作品に限らず、全体に渡って強調されていたのは、今、その人にしか創れない必然性と新機軸が、果たして作品の中に存在しているか、という事だった。
これは、屡々、現代音楽の病理とも言われているものでもあるけれど、私は、これが病理であるとも違うとも分からない。
音楽の歴史の中にある、天才の系譜に列なるか否かを振り分ける基準であるのだから、作家にとって一大事でないというのは嘘だと思うし、そんな音楽史というものが、たった数百年続いたに過ぎないファッションではなかったか、という気持ちも持っている。
勿論、私の気持ちというものは、コンテンポラリー・アートの世界の外に暮らしている市井の暴言に他ならないのだけれども、市民革命がアートの世界に襲いかかるのは、案外にこれからとも限らない。
無自覚の差別。昨今、話題となっている問題意識が、純情なアートの中にも、深く根を張っている。
少なくとも、それだけは確かで、昨日の選考会の雰囲気も、ある意味では、上級市民の集い、という匂いがあった。
潜り込んだとは言え、勿論、僕だって、加害者だ。
◎桑原ゆう:『タイム・アビス』 17人の奏者による2群のアンサンブルのための (2019~20)
桑原ゆうさんの作品は、最も高く評価された訳だけれども、それも当然という音楽。
正直、全く取っ掛かりがなくて、どう聴いてよいか分からなくて困ったのだけど、他のどの作品よりも、緊張を聴き手に強いる音楽で、意思の圧が強烈だった。
意識が違う。
素人の耳には、聴いていて全く解らない音楽だったから、凄い作品なんだろうという事が自明ともなる、如何にも現代音楽の性質を帯びた作品。
一つ一つの音の意味を、自分は今、スポイルしながら聴いている、そんな気分に襲われる、怖い曲。
ルドルフ大公にも、時にはベートーヴェンの音楽が、そんな風に聴こえた事もあったのだろうか。
エンターテイメントの外にある、高い壁の向こうのアートを、門前で聴く小僧の気分だった。
兎も角、二千円の入場料を払ったくらいで、音楽を聴く権利でも得たような気になっている、私の様な輩には、少しも媚びる所のない、純水の様な音楽。
私は、東京都の水道水も平然と飲み干す口だから、この妙味には最後まで気が付けなかった。
それは、四分音を正確に聞き分ける耳がない、なんていう、物理的な聴力の欠陥以前の問題であったと思う。
そのくらいの勘は、市井の耳にも、ちゃんとある。
◎稲森安太己:『ヒュポムネーマタ』 ピアノとオーケストラのための (2020~21)
当日は、選考曲の前に初演されたのだけれども、私にとっては、今回の催しのメインディッシュだったから、最後に率直な感想を。
稲森安太己さんの作品は、ピアノが独奏の作品だと聞いていたので、今回、座席はRB席の最前列に取ってあった。
ここは、ピアニストと目が合うのではないか、というくらいに奏者と対峙した気持ちになれる場所だから、好い。
実際、この席の響きは、バルコニーで聴くような趣があって、ちょっと貴族的でもある。
ヒュポムネーマタは、どんな音楽に聴こえたかと言うと、これがおかしなくらいに、noteでいつも読んでいる、稲森さんの文章の語り口と一致して聴こえたものだから、兎に角、心地のよい響きだった。
ピアノの第一声(あれは音というより声だと思う)が総てだった、と言ったら失礼かも分からないけれども、全部、あの一音に意識を持っていかれてしまった気もする。
そういう点でも、やっぱり、最高の席で聴けたと思う。
稲森さんが、現代音楽を言葉で紐解く文章の語り口は、いつも穏やかで、作家への敬愛の念がありつつ、ちょっと突き放して、短所も見据えている様な、優しさに満ちている。
正直に言うと、書いてある事の半分も、結局、読んでいて分からない。
でも、読むのが心地よい。
それは、文体の雰囲気もあるのだろうけれども、配置された言葉と言葉の関係性、間が良いからではないか、と私は勝手に思っている。
意味としての間柄も、語音としての間合いも、とても自然に結び付いている。
それは、必然性と言ってもよいものなのかも知れない。
ヒュポムネーマタにも、やっぱり、そういう間があって、よく分からないんだけど、それでも好いとしてくれる、優しさがあった。
また、素人の勝手な印象術で言うならば、シルヴェストロフの音楽の内にあるもの、しかも、実際には、中々、聴かせてもらえない、稀にしか音にならないもの、
それが微かにあった気がした。
恐らく、二人の流派は全く違うだろうし、目指す世界だって違うのだろうけど、音の届きか方が近かった。
押し出しの強さではなく、引き込みの強い、音。
よく分からないけど、そういうものが、自分はどうも嫌いじゃないらしい。
多分、今年の作曲賞にノミネートされた作品は、どれも押し出しの強い音楽だった。
そもそも作曲賞とは、そういう作品を選んで贈るものなのかも知れない。
だから、2年後の選考会で初演される、桑原ゆうさんへの委嘱作品が、一体、どんな語り口の音楽となるのか、これは是非とも聴いてみたいと思った。
作家は、一つの作品で判断されるべきものじゃない。
そうして、たった一作でも、好いと思えるものを見付けてしまったなら、その作家を嫌うなんて事は、いよいよ不可能だ。
わからないものを嫌うのに、急ぐ理由は、どこにもない。
作家と作品は別物であるという。
確かにそうで、歴史を観れば、寧ろ、作品の方が作家を作り上げている様にすら映る。
その役割を担うのが聴き手である、とは言わないけれども、僕らが作品を愛し、作家に敬する気持ちの方にも、少しは役目があってもよさそうだ。
音楽作品には演奏の歴史が必要だとよく言われている。
それに劣らず、聴かれる歴史だって必要だ。
最先端の日本の音楽を聴かせて貰って、そんな想いが強く残った。
まさか、サントリーホールでは、扉に鍵など掛けはするまいだろうけど、逃げ出す以前に、狭き門となっていて、入り難い。
それは何より、市井の不幸だ。
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