音楽:ジークフリートの幸福
ワーグナーは、父親も名の知れた作曲家であったし、祖父もまた高名な音楽家であった。
けれども、音楽家になる事を強要されなかったらしく、当初は建築家を目指していたそうだ。
音楽の道へと突き進む事になったのには、勿論、様々な理由があるのだろうけれども、夭折したイギリスの作曲家、クレメント・ハリスとの出会いが、大きな要因だった様である。
今日、ワーグナーは、作曲家としてよりも、指揮者として、或いはバイロイトの総監督としての方が有名で、作品の評価は必ずも高くはない。
個人的には、ヴォルフ=フェラーリと並ぶ、20世紀初頭のドイツを代表するオペラ作家ではなかったか、と思うのだけれども、何分、容易に手に入るレコードが少なくて、当て推量の域を出ない。
交響詩『幸福』は、若き日のハリスとの思い出に捧げられた作品。
ワーグナーの作品は、師であったフンパーティングの影響を強く受けており、同時期に活躍したリヒャルト・シュトラウスよりも保守的な作風を取り、父リヒャルト・ワーグナー、そして、祖父のフランツ・リストの面影も、幾分かは木霊する音楽だ。
舞台の音楽というよりも、映像の音楽という印象を与える筆致が、ヴォルフ=フェラーリにも共通の、広く時代の色だとしたら、メロディに頼らないメロディストという作風こそは、ヴォルフ=フェラーリと通ずる点かも知れない。
幸福と題された音楽ではあるけれども、雰囲気は、必ずしも幸せそうではない。
とても、回顧調子だ。
それは、幾つか聴いてみたオペラにも聴かれる色調で、音楽の時代の終幕を引き受けた人の好さがみたいなものがあり、メルヘン・オペラ作家と目されるのも、単に題材だけの話ではない気がする。
ハリスは親友というよりは恋人に近い存在であっと言われている。
両親に似ず、とても人柄が良かったのを、そのセクシャリティに重ねる向きもあるけれども、それは、ちょっと偏見が過ぎはしまいかと思う。
クレメント・ハリスは、25歳の若さで戦死してしまったので、遺された作品は僅かであるけれども、この人も、魅力的な音楽を書いた人だ。
正直に言うと、ジークフリートよりもクレメントの方が、才気は走っていたとも思う。
リヒャルト・ワーグナーからの影響も、より強い様にも見える作風だ。
そんな夭折の恋人、ハリスの音楽と並べて聴くと、ワーグナーの音楽に、余計に哀愁が立ち込めて来るのは、きっと気のせいというか、既に音楽ではなく文学の領域に踏み込んでいる読みになるのだけれども、それもまた広い意味での楽劇という気がして来る。
ハリスの音楽が冴え渡る程に、こちらまで悲しくなってしまう。
ロマンチックな音楽というものの行き着く先を、二人の交響詩に認めてみたくなる悪趣味も、存外、的を外しているとも思われない。
ワーグナーこ父親の作品に、ジークフリート牧歌という作品がある。
これは、ジークフリートを出産した愛妻を労った作品で、コジマに捧げた音楽であるけれども、リヒャルトの作品としては、数少ない清らかで、人の悪さを音楽に投影する事を放棄した音楽だ、と言ったら、親父の方のワーグナーの音楽が好みの人には叱られるかな。
兎に角、ジークフリートに掛かると、音楽は、随分に美しいものと聴こえて来る。
ワーグナーの交響詩には、『幸福』の他にも、シラーの詩を基に書かれた『憧れ』という、若い頃に書かれた作品もあり、もしかするとこちらの方が魅力的かも知れない。
ハリスの交響詩『失楽園』と続けて聴くのが、私は好きだ。
レコードは、今では廃盤かも知れないけれども、コンラート・バッハ指揮テューリンゲン交響楽団によるCDがあり、『憧れ』と『失楽園』を聴くことができる。
これは多分、手軽に配信でも聴けるものだと思う。
上手い下手で言えば、上手くない。
それを補って余りあるという訳でもない。
けれども、私は、好んで聴いている。
多分、将来、もっと上等な演奏が現れたとしても、この演奏は褪せない思い出となる筈だ。
コンラート・バッハこ演奏まですべて引っ括めて、私にとっては、ジークフリートという楽劇だから。
だから、お勧めはしないけれども、そういう劇が人生にはあってもいい、そんな風には感じて貰っても、いいのかな。