今週観たもの
一つ一つ丁寧に記憶に刻んでおきたいものばかりなのだけれども、既に多くを忘れ始めているので、脚を運んだ記憶だけでも留めたい。
◎映画『ギヴン』
2/15 14:35 池袋 ヒューマックスシネマズ
昨年末に、Netflixでテレビシリーズを観て、とても気に入ったアニメーション作品。
原作は、BL作品らしいけど、アニメ化に際しては、過激な描写は極力排除されている様で、途中まではそういうジャンルの話とは気が付かなかった。
バンド活動を共にする四人の恋愛模様を描いた作品。
心の移ろいが細やかに描かれていて、しかも、音楽がきちんと主軸にあるのが面白い。
何より、センチミリメンタルが手掛ける音楽が、画に嵌まっていて、純粋にいい音楽だなと思った。
映画では、テレビシリーズの続きの話が描かれる。
テレビシリーズでは、高校生の2人がフォーカスされていたけれど、映画では、大学生2人の方に軸足は移されて、恋愛模様もより複雑さを増し、人間関係はかなりもつれて、肉体的な関係の表現も幾分かは赤裸々となる。
センチミリメンタルの音楽は、勿論、映画の中でも美しかった。
けれども、この映画を観終わって、無性に聴きたくなったのは、映画の冒頭に挿入されたチャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルト。
それも、誰の演奏でもいいので、出来るだけ若い男性ヴァイオリニストの演奏で聴きたいと思った。
次の予定まで、少しだけ時間があったので、池袋の中古レコード店に寄って、取り敢えず、一番若そうな人のCDを買ってみる。
それは、ユーチン・ツェンという台湾のヴァイオリニストで、2015年のチャイコフスキー・コンクールの最高位を取った人らしい。
家に帰ってから、早速、聴いてみたのだけれども、映画の中で少しだけ流れた音楽とは、当然ながら、全く別物の様な気がした。
今日こそは、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲に全面的に降伏できるかも知れないな、という期待があっのだけれども、それはまたしても叶わなかった。
きっと、映画の中で響いたチャイコンは、村田雨月という架空の人物への同情がつよ過ぎて、実在の大作曲家であるチャイコフスキーへの共感をも遥かに飛び越えた所で、響いたのだと思う。
お互いに傷付け、傷付き、愛し、愛され、疎みながらも求めて、それでも決別して、離れられず、近付けられず、それでも、いつかはどこかでみな繋がっていくのだろう、とっても観ていて切ない、ちょっと居た堪れなくなる物語。
その辛さが、この映画の素晴らしさを担保する。
一節の美しいメロディと引き換えに、貴方は何を差し出せますか?
何だか、そんな残酷さを孕みつつ、作品に漂う雰囲気はやんわりしていて、出てくる誰もが愛しくい。
まだまだ始まったばかりの物語、続編に期待しつつも、観るのがちょっとだけ怖い。
◎石田スイ展
2/15 17:00 池袋サンシャインシティ 展示ホールA
この日、池袋へ行った一番の目的。
東京喰種も、やっぱりNetflixで観て、すっかり虜になった作品。
この半年で、アニメーションを観るようになって、嵌まった作品は幾つもある。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン、Free!、アオハライド、ギヴン、蟲師、、、
中でも、夏目友人帳と東京喰種は別格だ。
ただ、どちらも未だに原作は読んでいないので、夏目友人帳の新作映画は躊躇なく何度か観に行ったけれども、石田スイ展に行くかはかなりの迷いもあった。
特に、東京喰種は、既に完結している漫画だから、原作まで読んでしまったら、本当にこの作品が全て完結してしまう喪失感に、ちょっと耐えられそうにないから、未だ暫くは読みたくない。
アニメ版も、数日で、全話いっきに観てしまったので、毎号、続きがどうなるか、リアルタイムで漫画を読んでいた人々の興奮には、ちょっと想像出来ないものがある。
だから、原作者の創作過程を探る展覧会に、原作を読む前に触れる事には、後ろめたさがつきまとう。
それでも、観てきて、やっぱり良かった。
石田スイ展は、東京喰種が3分の2で、残りの3分の1はジャックジャンヌという新作ゲームに割り当てられている。
このゲームを、しっかりとプロモーションするための展覧なのだと感じたけれども、やっぱり、東京喰種の方に気持ちは持っていかれてしまった。
何れにしても、作品そのものよりも、石田スイの創作のあり方を垣間見る展示となっているから、石田スイという人の才能のあり方が、如何に図抜けているかを、ありありと見せ付けられる構成だったと思う。
美術館が行う様な展覧会とは趣の異なるものだから、ここでしか観られない原画がメインにある、という訳でもないし、そもそと、漫画という表現形態は、生の原稿を観なければ本当の魅力は解らない、なんて柔なものでもない。
そういう意味では、この展覧会で白眉だったのは、公式図録だっあかも知れない。
展覧会で、大きなパネルを観る感動には及ばないかも知れないけれども、否、寧ろ展示パネルよりも図録の方が精緻な出来で、絵画を図録で眺める様な虚しさとは無縁の、素晴らしい一つの作品となっている。
もう一部、買って来るべきだった、と心残りなくらい。
石田スイの独特の筆致、取り分け、色彩感には、観ていてゾクゾクするものがある。
これは、アニメーション化された際には、殆んど削ぎ落とされてしまったものだから、原作を読まなければ東京喰種の本当の良さは解らない、という主張も無理はない。
あの筆致で、この物語が紡がれるのを、毎号追っかけていた人々の前で、東京喰種が好きだなんて、正直、言うのはとっても恥ずかしい。
ただ、自分の中で、東京喰種という作品が、決定的になった瞬間は、佐々木琲世の中で金木研が覚醒した瞬間にunravelが流れた所であったから、やっぱり、アニメ版が劣ったものだとも思いはしない。
事実、unravelが果たす役割は、石田スイ展でも絶大だった。
もう、あの音が聴こえてきた瞬間に、気持ちは東京喰種の世界の中に溺れてしまう。
アニメーションに限らず、オペラでも映画でも、テレビドラマでも舞台でも、原作を先に知っているという事は、必須の予備知識である場合もあれば、不幸な先入観に苛まれる原因となる場合も甚だ多い。
漫画という芸術に対して、私は余りに無教養だったから、本当に心からアニメーションに純粋な気持ちで接する事が出来ているのかも知れない。
そして、その入り口から入ったならば、石田スイという人の才能には、もう一度、心底、驚かされる瞬間が待っている。
本当に、幸せだ。
◎昼寄席
2/15 18:50 ラスタ池袋
石田スイ展の帰り道、客引きに声を掛けられて、その必死な姿にちょっと同情して観に行った。
若手のお笑いグループが短いネタを披露する40分ほどのライヴ。
金額は、ワンコインで500円。
何人もの客引きが街に繰り出していたけれども、どうも全員出演者だった様だ。
毎日、ライヴは数回開催されている様で、確かこの回は、7組くらい出演していた。
観客は自分を含めて11人、出演者の総数の方が観客より多い。
しかも、観客の過半数は、このイベントスペースの常連の様子だったから、あれだけ必死に客引きしても、殆んど観に来て貰えないのだろう。
何とも厳しく、それでも尚、この世界で生きたいと懸命に励んでいる人達の生き様に、適当にやり過ごして生きている自分の生活が後ろめたくなった。
どのグループがどのくらい面白かったかというと、突出した笑いは無かったと思う。
夢路いとし・喜味こいしの後期の漫才に魅了されて育って、そこから、笑いのアップデートをろくにしていないので、感覚が現代について行けていないのかも知れない。
それでも、笑いに行こうと思って観に行ったのだから、面白かった。
周りの観客も面白がって観ているのが何より好かった。
だからこそ、ここは狭い世界なのだとも思ったけれども。
ただ、その狭さを本当に愛しているのは、観客の方であって、出演者ではないのだろうという気がする。
きっと、この大きさの箱でしか出来ない笑いがある。
そして、この大きさの箱にしか出られない芸人がいる。
だけれども、みんな、売れて欲しいな、と素直に思った。
池袋は滅多に行かないけれども、また客引きに声を掛けられたら、二つ返事で観に行こう。
◎吉田博展
2/18 東京都美術館
“石田スイ展 混雑”で検索したら、何故か吉田博展がヒットした。
正直、名前も知らなかったのだけど、何となく気になったので、観に行く。
二時間くらいあれば十分だろうと思って行ったのだけど、全く時間が足りなくて、半分くらいしか観られなかった。
今まで観てきた全ての美術作品が、何だか偽物の様に思えてきてしまうくらい、圧倒的な展覧だ。
吉田博は、木版画の大家という事になっている。
そして、こよなく山を愛した画家だ。
日本人の私にはよく理解できないのだけれども、何故か、欧米の人々は日本の浮世絵が好きらしい。
それが、単なる異国情緒なのか、もっと深刻な欲求から来るものなのかは解らないけれども、兎に角、好きだ。
浮世絵の好さは、殆んどが構図にある様に思う。
そして、絵師と彫師と摺師は分業だった。
総合芸術の無限の可能性を秘めつつも、何か軸のぼやけた共同作業的な精華が支配的で、その腰の弱さこそがジャポニズムの美質の様にも見える。
吉田博が、木版画に本格的に取り組むのも、そういう海外のニーズがあってのものだったそうだ。
だけれども、この人の行き着いた先は、浮世絵とは凡そ異次元な、人類における木版画の極地をも示してしまった様な、偉業に思えてならない。
瀬戸内海集(大正15年)
吉田博は、山の画家と言われる。
しかし、この人の画業は、瀬戸内海集にこそ極まっていて、中でも同じ版木を使って色を変えて別摺された、6枚の帆船が圧倒的だ。
朝、午前、午後、霧、夕、夜
この6枚の木版画を前にして、もう、ここから先へは容易には進めなくなった。
同じ構図の中に、一日の移ろいが描かれて、どの一枚として派生的な所がなくて、全く独立しながらも、やっぱり一つの景色となっている。
世の中に、時を描く連作の画は幾つもある。
一枚の画に幾つもの時を詰め込む画だってたんとある。
けれども、摺りによってのみ、その時間をすっかり画に封じ込める事に成功した人は、一体、どれ程いるのだろうか?
単なる一日のサイクルを越えて、人類における永遠が、この6枚の中に、すっかり写し取られてしまった様にすら思えて、泣きたくなった。
吉田博は、山を描く時、何より対象物を確りと捉えて描く。
そこには隙も妥協もなくて、何かしら張りつめたものがある。
だけれども、彼が海を描く時は、特にこの瀬戸内海集では、描かれているのは、必ずしも船でも海でもない様な気がした。
その景色が宿す、目に直接は見えないけれども、最も確かにあるもの、空気が、如実に写生されている。
だから、易々と時間軸を超えて来る、そんな気がしてしようがなかった。
人はそれを錯覚と言う、或いは誤解とも。
だからこそ、私は何時も思うのだけれども、そういう過ちを起こさない様なものなど、詰まるところ下らないじゃないか、と。
どんなに立派な展覧会でも、これだけの傑作が並んだら、他は真剣に観なくても、まぁ、そんなに困らないのが通例だ。
だけれども、吉田博展は、ここから先にも、物凄い作品が、次から次に展示されていて、すっかり困惑してしまった。
中でも、おうむを描いた3点は尋常ではなかったけれども、東南アジアへ行って以降の作品の、一見、画業が後退したかの様に見える見通しのよいさっぱりとした筆致の作品群に、実は、この人の飽くなき修練の軌跡が見えて、これはもっときちんと時間を掛けて対峙しないないと、大きく見損ないそうだった。
日本風から脱却してまで、吉田博が追求した日本、それは、日本人にこそ難しい景色かも知れない。
最後の作品、農家も強烈だった。
日常の一時を描く一枚の画に永遠を閉じ込めてしまった様な趣で、西洋画家としての答えを木版画で示した傑作だと思う。
それは、写真機の発明が、画業の行く先を思わぬ方向に向かわせたため、西洋の作家達が出しそびれてしまった答えを、吉田博が替わりに出した様にも見えた。
真似びて先に、こういう化け物が出るのが、辺境地の魅力であり、役割なのだ。
余りに、衝撃的な遭遇だったので、普段は展覧会の図録なんては買わないのだけれども、思わず買って帰って来た。
勿論、それは優れた印刷物だとは思うけれども、帰って観れば、やっぱり、何か大事なものがすっかりスポイルされている様な気がした。
そして、その事に、内心とてもほっとした。
その現象は、石田スイ展とは、丁度、正反対とも言えるかも知れない。
いや、そうやって、対になってこそ、初めて、どちらも自分にとって、出会いが大事件であったと実感出来る。
吉田博の作品は、木版画の型の中で完結する。
石田スイの作品は、印刷されて、初めて完成する。
その違いは、大きくも小さくもない。
すがたかたちの違いこそは、人類に歴史があっても、なお、未来が続くことへの、唯一の励みじゃないか。
しかし、何で、検索に、吉田博がヒットしたのかな。
◎映画『トキワ荘の青春』
2/19 13:15 アップリンク吉祥寺
霧島昇の“胸の踊り子”が何とも懐かしかった。
漫画を読まずに育ってしまったので、この映画の面白みを、きちんと掬い取れた実感は全くなかったし、そういう人に優しい作りにもなっていない映画だったとも思う。
とても静かに描かれるトキワ荘の時の移ろい。
けれども、その一歩外では、モウレツに時代は押し進められていく。
その二つの時の間で、トキワ荘の青春は、脆くもいつかは破綻する事は明らかであるけれども、その前に、密やかに幕は降ろされる。
昨年、ハチャトゥリアンの映画を観に行った時に、一ヶ所だけ、恩師ミャスコフスキーの名前が出て来る場面があって、ミャスコフスキーのファンとしては、その何でもないワンシーンに一番痺れてしまった。
きっと、この映画も、それぞれの作家のファンにとって、そんな風に観られた映画だったのだろうと思う。
だからかな、観に来ていた年齢層も、とっても高い。
映画自体、25年前の作品のデジタルリマスター版だから、新しい訳でもない。
今では、大活躍の実力派・個性派俳優達が、まだまだ知られていなかった頃の出演作品だから、芸能に詳しい人にも感慨深い作品となっているらしいのだけれども、そちらもまた私にはピンと来ない。
だから、ただただ、霧島昇の声が懐かしかった。
そして、それだけでも、この映画の空気感はすっかり受け止められたから、やっぱり歌って凄いなと思う。
霧島昇をよく聴いたのは学生の頃。
社会人になってからは、岡本敦郎の方がより好きになった。
でも、改めて聴くと、やっぱり、霧島昇は声も好いし、兎に角、上手い。
ギヴンも好きだし、TM from 凛として時雨も好きだけど、自分の人声の原体験は、結局、霧島昇なんだな、と痛感する。
だけれども、そういう感覚を共有出来る世代が、随分、鬼籍に入ってしまったから、尚更、こういう映画を観ていると感傷的になってしまう。
霧島昇の声だって、自分の生きた時代の、コンテンポラリーでは全くないのに。
“終戦はどちらでお迎えに?”
以前勤めていた会社で接客の仕事を始めた頃、それが初対面の人に対する一番の挨拶だったのが、昨年、退職する頃には、殆んどそういう挨拶は通じない時代となっていた。
その間、僅かに10年。
人の寿命はつくづく短い。いや、早い。
何だかね、正直、最近、とっても寂しい。
トキワ荘の青春を観に来ていた周りの人達は、そんな世代よりも、もしかしたら二回りくらいも若いと思う。
きっと、霧島昇の歌声よりも、映像に映し出される景色の方が、ドンピシャで懐かしいだろう世代。
改めて、自分の世代って何が懐かしいのだろう、と考えてみる。
あぁ、そうか、夏目友人帳が描く時代なんだな。
あの頃に、世間で何が流行っていたかなんて、全くの無頓着だったから、正直、全然解らない。
けれども、田舎に流れていた空気感は、あそこまでは穏やかでこそなかったけれども、確かに、あんな匂いがあった。
そういう時代の共有は、自然と人の共感を増すものだ。
トキワ荘出身の漫画家の作品が全盛期の時代を生きた人達には、今の漫画は詰まらない、という人が少なからずいるらしい。
それは、正しいとか間違っている、という言い方も出来るかも知れないけれども、そういう判断というよりは、もっと時代に深く結び付いた感覚、実感なのだろうと思う。
例えば、あるひとつの年を切り取ったとする、今年ならば、令和の3年。
そこには、確かに一つの時代の色がある。
けれども、そこに生きている人間ときたら、実に幅広い年齢層だ。
寿命が伸びた分だけ、余計に分厚い。
そのあらゆる世代の混成物として、社会を眺めたなら、確かに、世紀末が、実際には世紀を跨いで、20年くらいは遅れて来るものだ、というのも頷ける。
そして、恐らくは、20世紀の末葉は、更にもっと遅れて21世紀に生き長らえるに違いない。
そういうグラデーションを実感させてくれるもの。
『トキワ荘の青春』という映画が、今日の自分に指し示すリアリズムは、どうもその辺にあった様な気がしている。
主人公の寺田ヒロオという人は、随分に時勢に悩まされて、後年は生きる事を半ば疎みながら、死んでいった人だそうだ。
一般的には、それは歴史の舞台裏で演じられる活劇とされている。
けれども、社会においては、案外に、そちらの方が表かも知れないし、人生と置き換えれば、いよいよ、表裏は反転だろう。
だからこそ、人間は懐かしい。
それは、少しも間違った感情ではないし、必ずしも感傷だとも言えないと思う。
懐かしいという感情は、懐古ではなくて、過ぎ去った最先端への供養の様なものだろう。
多磨霊園に参拝する様な、穏やかで心地よい、けれども、少しだけ寂しい、そんな映画だった。
だけれども、あの時にあの場所が、未来を予見する最先端の基地であった事を、見逃すことだけはしません様に。
きっと、今日もあちこちに、トキワ荘という場所がある。
それは、もう今の自分には理解の及ばない景色かも知れないけれども、叶うことなら垣間見たい。
懐かしさには、そのくらいの未来指向性はあるものだ。
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