CD:エルガーのチェロ協奏曲

周期的に英国の音楽が聴きたくなる。

それは、ジェラール・フィンジのクラリネット・コンチェルトという事もあれば、ウィリアム・バードのヴァージナル音楽という事もある。

ウィリアム・ローズのコンソート・ミュージックも好いし、ラヴ・ノークスのセカンド・アルバムも悪くない。

けれども、最もこの国を象徴する音楽家と言えは、やっぱり、エドワード・エルガーだ。

ヘンリー・パーセルの夭逝をもって、長らく音楽不毛の国となっていたイギリスにあって、エルガーは実に二世紀振りに現れた大才だった。

威風堂々、愛の挨拶、エニグマ変奏曲、云々、曲名は知らずとも、誰しも一度は耳にした事のあるだろうメロディ。

だけれども、エルガーの音楽って、逆に、そのくらいしか知られていない。

否、聴かれていないのではあるまいか。

真の代表作とも言える、第1交響曲やヴァイオリン協奏曲などは、ポピュラーな名作ともマイナーな秘曲とも言えないところを揺れている。

その理由は、多分、あれこれ考えるよりも聴くが早い。

率直に言って、私には、この人の音楽、冗長、晦渋、鈍重だ。

国民的な作曲家とされながらも、どちらかと言えば、ヨーロッパ文化の中心、先進的な大陸の方を向いた作風で、一度聴けば、イギリスの風土・歴史が連想される、という様な情緒は存外に少ない。

もっと内向的で、個人的な、聴き手を選別する作風だ。

その点においてこそ、エルガーは如何にも英国の人、と言う事も可能だけれども、演じた役割に対して、遺した音楽は掴み所が難しい。

チャイコフスキーやドヴォルザークと同じ様な役割を担いながらも、それを演じきるには、良くも悪くも通俗性に欠けている。

それもまた、音楽後進国でこそあれ、辺境国でなかったばかりか、寧ろ、世界の中心にして最大の音楽消費国であった大英帝国らしい、と言うべきか。

勿論、そんな言い分は、全部、こちらの勝手で、偏見だから、エルガーの音楽は、ド派手で華やか、親しみやすいと思う人だって沢山いるだろう。

実際、濃厚すぎる程にロマンチシズムの音楽でもある。

だからこそ、周期的にしか英国の音楽を聴かない人間には、手に余るのかも知れない。

朴直で感傷的、郷愁と諧謔を揺蕩う、薄曇りな世界、そういう音楽に耽る事を許してくれないから。

エルガーの独白は、何時だって強かだ。

チェロ協奏曲は、比較的後期の作品で、華やかさを意図的に排した様な、モノトーンの音楽。

だけれども、どこか休符までもがうるさい様な、相変わらずの大柄な風体をも備えている。

初演時に、作曲家本人が期待した様な成功は納めなかったけれども、あからさまに侮蔑される事もなく、じわりじわりと評価は高まって、今では、チェロ協奏曲の傑作とまで評価される名作だ。

それを、華もなければ静寂もない、と言うのは気が引けるのだけど、フィンジであれ、ディーリアスであれ、ウォルトンであれ、チェロ協奏曲というのは、どこか煮え切らない所があって、その癖、力感はやたらと強いのものがあるから、そもそも、そういうジャンルと解するのが定石なのかも知れない。

要するに、あんまり好きじゃない、というだけの話だ。

それなのに、この数日、エルガーのチェロ協奏曲ばかり聴いている。

それが、自分でもよく解らない。

好きになったという気はしないし、誤解が解けた訳でもない。

ただ、ひたすらに、エルガーの内向性に付き添って、何の外連味もない演奏を耳にして、案外に、エルガーの音楽を煩くしているのは、演者と聴き手の方であって、エルガーに本当は無いものを期待し、求める欲望の表れであったのかも知れないな、くらいには思うようになったから、一応、その心の動きを書き置きしたくなっただけの事だ。

その宛だって、結局は、自分なのだから、エルガー並みにうるさい独白には違いない。

独奏:ジェイミー・ウォルトン
采配:アレクサンダー・ブリガー
楽団:フィルハーモニア管弦楽団
録音:2008年、ロンドン

この録音、別に、エルガーが聴きたくて買ったものではなかった。

併録された、ミャスコフスキーのチェロ協奏曲が聴きたくて購入したものだった。

そして、このミャスコフスキーのチェロ協奏曲、私が知る限りでは、最高の演奏だった。

ミャスコフスキーの音楽は、エルガーに比するまでもなく、冗長、晦渋、鈍重で、それが持ち味だ。

率直に言って、この人は天才じゃあないんだ。

それなのに、長く付き合っていく内に、まさにそこが心地よくなって来る。

何か何時も出そうで出ない、そんなもどかしさがあって、それが魅力だ。

だから、様々な、才能豊かな演奏家達が、必死に聴き映えする様に調理する。

そこまで味付けしないと、聴衆には届かないだろう、という善意の表れであると思う。

結果、益々、不発となる音楽なのだけど、そこまで引っ括めて、飲み干す事に決めている。

個人的には、ミャスコフスキーの音楽を、そういう風に解して、相当に愛してもいる。

そんな作曲家を好んで聴くようになったのは、単純に、生年が自分と丁度百歳違いの人だったから。

月日も一致している訳でもないのに、何故かそれだけで好きになることにした。

余り有名でない所も、どこか頼もしかった。

そして、聴き続ける内に、本当に好きになっていた。

否、実際には、10年くらいは全く聴かない期間があって、才能のない人だなと思って離れてしまった事もあったのだけれども、久し振りに再会してみたら、本当に好い奴なんだな、ミャスコフスキーは。

何より大人なのだ。

だから、それ以来、可能な限り、ミャスコフスキーのレコードは集める様にしているのだけれども、大方の演奏は、やっぱり、やり過ぎだ。

無いものを無理矢理に引き出して、面白くなる様な音楽じゃあない。

ひたすら、どこまでも、一緒に沈んでいくべき音楽だ。

そして、その先に待っている静けさは、そんなに寂しいものじゃない。

ヒューマニズムという言葉は、余り好きじゃないけれども、ミャスコフスキーの音楽の底に溢れているものは、そんな風に形容されるもの、つくづく、人情の人だと思う。

だから、この録音も、期待をするでもしないでもなく、殆んど、リスナーの義務として聴いた。

そして、心底、驚いた。

あぁ、こういう音楽なんだよ、ミャスコフスキーって人の音楽は。

独奏のチェロも勿論、素晴らしいのだけれども、伴奏の指揮者とオーケストラが、また素晴らしい。

どこまでもどこまでも、音楽はあるがままに響いている。

こんなに嬉しい事って、滅多にない。

誤解というものは、自分がされるよりも、自分が大切にしている人がされる方が遥かに苦しい。

思っていた以上に、自分はミャスコフスキーの事で苦しんでいたのかも知れないな、と気が付いた。

彼等と共に、どこまでも静かに深く深く沈みたい。

そんな決定的なレコードだった。

そして、それは、そのまま、エルガーの方にも当てはまる様な気がした。

試しに、敬愛する他のチェリストの録音で、慌ててエルガーのチェロ・コンチェルトを聴いてみたのだけれども、やっぱり、何処かうるさい音楽だった。

それを、誰のせいにするべきなのか、すっかり判らなくなってしまった訳だ。

エルガーなのか、演奏者なのか、時代なのか、自分自身なのか。

ただ、判らなくなってしまった、というのは、要するに、殆んど分かったという事。

そんなアイロニカルまで一々補足するなんて、やっぱり、相当に鬱陶しい書き置きだ。

周期的に英国の音楽が聴きたくなる。

詰まりは、常には聴かない音楽。

ある種の居心地の好さがイギリスの音楽にはある。

それは、物足りなさの便利な言い替えに他ならない。

物足りなさ、というものも、悪いばかりのものじゃあない。

そして、その中に、多分、エルガーは入らない。

この先、エルガーの音楽に、深く分け入っていく事には、多分、ならないだろうと思う。

けれども、ウォルトンとブリガーの音盤は、きっと集める事にはなるのだろう。

その業の深さには、既に殆んど溺れて窒息してもいるのだけれども、止められない。

無闇矢鱈と聴くことでしか、開けない世界もあるのだろうか。

まあ、なくとも構わない。

ここまで沈めば、もう足を掬われる心配はないのだし、掬われた所で、既に窒息しているのだから、行き着く先も知れている。

ただ、エルガーという人の音楽が、とても美しく思える様になった、たった、それだけの些事なのだから。

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