春の祭典
当たり前を創る人が偉いのか、それとも当たり前から逸れる人が凄いのか。
二流のオーケストラの大スペクタクルを聴きたくて、ベルギーのBTRフィルの録音で、ストラヴィンスキーの春の祭典を聴いた。
指揮者はアレクサンダー・ラハバリ。
音楽に疎くともアニメが好きな人にはお馴染みのイランの巨星。
1990年の録音で、この当時、ラハバリはBTRのシェフで、自らレーベルを立ち上げるなど絶頂期の一枚。
BTRは、ベルギーのフラマン語圏の放送楽団で、現在は、日本人の大野和士が音楽監督に就任しているらしい。
そういえば、大野さんも欧州の二流のオーケストラのレコーディングによく起用される人だけど、日本では二流好きよりも、寧ろ、一流品愛好家の世界で評価されている節がある。
春の祭典という音楽は、オーケストラの機能美を聴かせるには打ってつけの音楽だ。
だから、一流の人達の演奏は、水を得た魚となる、とは必ずしも参らない。
まな板の上の鯉じゃあないか。
その点、ラハバリの采配は、オーソドックスじゃあないし、欲しい所でスッ転んでいたり、思わぬ所でパワーが炸裂したり、奇想天外の模範解答で、録音のバランスも粗を隠すために加工が施されているらしく、不自然なバランスで霞んでいて、それがまた風情を実に豊かにしている。
ストラヴィンスキーという人は、とても精緻に音楽を設計する人だから、作品の意図とは、恐らくはかけ離れた演奏だろう。
だからこそ本質に迫っている、と言ったら作家には悪いけど、春の祭典という音楽の人類に対する存在意義が、ある種、極まった一枚ではないかと思う。
名盤とは思わないし、最高とも思わない。
やや混濁したアンサンブルは、制御不全の結果だ。
その御し難きモノこそは、人情の華である。
洗練は無論、野趣からも遠い、異物感。
恣意だな。
恣意的であるという事、これ程、ストラヴィンスキーの音楽をストレートに体得した態度はない気がした。
2023年、極東では、ストラヴィンスキーはそんな風に聴かれている。
ニュートラルな方が余程めざとい。
腐った時代に生きていたら、腐っていなければおかしいし、狂った世界に生きていたら、狂っていなければおかしい。
そして、いつでもどこでも、おかしなものこそ美しい。
ラハバリのストラヴィンスキーは、そういう当たり前を、僕らに解りやすく説いている。
春の祭典を黙って聴き続けて来た蓄積が、その様にラハバリを解く、とは言いたくない。
沈黙は聴く事の第一歩。
そういう耳が、どう聴いたかが一大事だ。
年々、聴くのを大儀に感じる様になって困っている。
作家も、創作に、同じくらいは困るのだろうか。
きっと遥かに大儀なのだろう。
本当に好きなものは、案外に疎ましいな。