CD:2006年、大阪のシューマン
19世紀のドイツの作曲家の音楽に20世紀の邦人が何を求めたか、という事に対して、21世紀の人類が、どれ程、正しい認識が持ち得るかは分からないし、克服すべき事であろうとも思えない。
それに、私が好きなシューマンと、僕が好きなシューマンとでも、必ずしも一致はしない。
それは、昨日の自分と今日の自分とでは既に同じ者ではない、という現実とも少し違う。
人間には多面性がある、とか、本音と建前とか、意識と無意識とか、精神が分裂気味であるとか、そういう事の方がまだしも近い。
けれども、近いという事は、遠からずも、また、一致もせず、という感覚だ。
作者:ロベルト・シューマン
作品:交響曲全4曲
采配:湯浅卓雄
楽団:大阪センチュリー交響楽団
録音:2006年、大阪、実況録音
この全集録音は、発売当初から評判も高かったし、世評も良かったと記憶している。
それに反発したレビュアーも、手放しで酷評する者は少なくて、条件付きで長所を認めざるを得なかった様だ。
ただ、これが人類史上、最高峰のシューマン演奏である、という人も、少なかったかも知れない。
そもそも、同じ作品を様々な演奏家によって、場合によっては、同じ演奏家の異なる日時の録音によって聴ける時代、音楽を聴くという行為自体が比較分類学的な体裁を成している、という観もある。
学として成立していなくとも、幅広く、比較を免れず聴かれている。
反対に、そういう意識がないならば、同じ音楽の違う演奏の録音を、幾つも幾つも集める事に、正当な動機は見出だせないものかも知れない。
一枚のレコードを擦り切れるまで聴くのと、同曲異演のCDを取り合えず百枚持っているのとで、どちらがより幸福か、豊かな音楽体験であるか、という事を、別段、問いたい訳でもない。
音楽は誰のためにあるものかすら分からない。
けれども、音楽を誰のために聴くかは、比較的明瞭だ。
それは、自分のために聴くか、他者のために聴くか、くらいの違いしかない。
その他者とは、作曲家や演奏者を直に指す場合もあろうし、文字通り不特定多数であって、それらに向けて指針を示す為に使命感を帯びて聴くのかも知れない。
そして、勿論、レビュアーというのは、一貫して、自分のために聴く人達だ。
批評家も、大半は自分のために聴いている。
あとは精々、自分のためにやった事が、他人の役に立つ事もあれば、害悪となる事もある、というくらいの差異がある位いだろうか。
そんな違いが些事であるという人もいれば、大事だと考える人もある。
ちょっと、大袈裟に言うと、僕がシューマンの交響曲を聴くのは、殆んどシューマンの為だ。
実際に、それがシューマンの為になるかは分からないけれども、兎に角、シューマンの為に聴いている、という感覚がある。
だけれども、音楽を聴くという行為は、全く自分のためにやっている。
付き合いで、嫌々、聴いている訳でもないし、誰かを擁護する為に、或いは、啓蒙する為に聴くのではない。
己の欲望に忠実なだけだ。
それが、私がシューマンを聴く、正しい動機だと思う。
一方で、たかが音楽を聴くという行為を通じても、僕らは、人類を新次元に誘う事を常に真剣に目指してあるべきだ、とも考えている、ただそれだけだ。
そこに、矛盾を見出だす事すら、実は、もう出来ない程に、僕は私を生きて久しくもある。
その結果が、自己満足に過ぎない、という事は、それこそ全く些事なのだ。
そもそも、私は自分に余り価値を認めていない。
だから、自分の嗜好を余り正当化したくもないし(全面的に擁護はしたい気持ちはあるけれども)、他者のあり方を不当だと糾弾したい訳でもない(どんな意見に対しても反論と同情をもって共感したいと願っている、限界はあるのだけれども)。
そういう事を、市井の人までが当たり前に考える今世紀にあって、沢山のレコードを聴くって、一体、どういう事なのかな、と思うのだけれども、その答えを出す事は、中々に難しい。
模範解答とならずとも、何なら正解でなくとも構わないと思っているのに、出ないのだ。
誤解すら出来ずに、目下、音楽を右から左へと聴き流している。
否、それは、左から右へと流されている、と認識するべきか。
どちらかは分からないままにも、そのまま、人生が朽ちる予感も、多分にある。
そんな漠然としたものこそが答えだ、と言える程、僕は恐らく、この過程を愛してもいない。
それでも、何か意思をもって聴く。
曖昧模糊とした意識をさまよいながら。
きっと、そこにいるのが、シューマンという人だ、と言いたくもある。
誰の演奏を聴いている時に気が付いたかは、忘れたのだけれども、シューマンの交響楽は、日本のオーケストラが一番好く馴染む様に書かれた音楽だ。
多分、日本語との相性が好いのだと思う。
シューマンはドイツの人だし、とてもドイツ語を大切にもした人だ。
聴き手が日本人だから、そんな世迷い言となると言われれば、勿論、そう。
本国では既に廃れてしまって、本邦でのみ聴き継がれている音楽でもない。
寧ろ、国際的に、シューマンのシンフォニーは、急速に再評価されている。
邦人の耳の欧化も、文明開化以来、少しずつ、しかし、確かな歩みをもって、現在進行形であるのだから、ドイツの音楽をどうやって日本に嵌めるかなんて、もう考える事自体が古臭い。
だからこそ、2006年、シューマン没後150年になって、漸くシューマンの交響曲が、史上初めて正しく演奏されました、なんて事があっても、逆に、何の不思議もないのだけれども、そんな賛辞を、大阪で行われたシューマン・サイクルに贈りたい訳でもない。
日本のオーケストラが、よくここまで立派なシューマンが出来た、なんて事を言うのは、いよいよ、最悪だ(勿論、邦人洋学家、そして、その歩みをずっと見守って来た人達に、そんな感慨が沸くのは、とっても正しい事、否、寧ろ、そちらの方が正攻法なのだけれども)。
ヨーロッパに発生した音楽が、アジアにおいて完成されてはいけない、という理屈はない。
されなければならない、という道理もない。
きっとどちらも不幸な道だ。
それに、それは聴き手の知った事ではないものだ。
音楽において、最も大切なのは、聴き手である。
そういう、至極明快、単純な現実すら、この先、揺らぐとも限らないけれども、少なくとも、今世紀は、未だその体裁を保っている。
作曲家が、屡々、不理解に苦しむのは、何より、聴き手を重んじる為でもある筈だ。
彼等は、聴き手に応えるだけでは足りない。
聴き手を生む事こそが、殆んど唯一の良心なのだ。
演奏家の使命もまた、それに準じるや否や。
聴き手としての僕もまた、出切るだけ多く転生する事が、きっと良心なのだと思う。
今一つ、確証というか直観がないのだけれども、湯浅卓雄のシューマンを通して聴いて、待ち受けていたのは、そんな一つの仮説である。
相対的である、なんてものではいけない。
聴く度に、僕らは殺されて、再生する様でなければ、それはもう、聴いているとは言えない。
2006年の大阪に響いたシューマンは、ざっくり言うと、そんな音楽。
に聞こえた、とは言うまい。
とても作家に忠実な、音楽だ。