ここにいながら旅に出る
写経と聞くと神聖な、厳かなイメージを持たれるだろう。本来仏教の世界で経典を広める為文字を正しく写すことから始まったようだが、それがいつからか功徳(くどく)のある行為とされ、供養や祈願にも用いられるようになったいう。筆に精神集中するため日々の怒りや妬みなどの邪念が払われ、心の安定につながるらしい。心の乱れは文字に表れるとも言う。写経の効果は素晴らしいことは間違いない。
ここまで書いて言うのもおこがましい気もするが、菱刺し(ひしざし)という作業はとても写経に似ていると思う。
精神集中というか、針目をしっかり集中して数えないと間違う。そうすると次の段も間違えてとどんどん連鎖していき、気がついた時には全体的に形が変わってしまう。しっかり針の先を追って、たまには引いて見て全体の形を確認しての繰り返し。
常に今の手先に集中していく。モヤモヤして何かぼんやり考えたりしていると必ず間違い、これまで進んで来た道をだいぶ戻らなければならないこともしばしば。そんなことを繰り返しながら刺し溜まった布を見ると達成感で満たされる。くよくよ、ドロドロした気分もどこかへ飛んでいってしまう。自分の心と向き合うという点が共通しているのか。最近の流行り言葉でいうと非常に「ととのう」のである。
しかし布一面に細かく針で糸を刺し埋めていく作業なので長丁場である。やはり静けさの中でばかりいると飽きてくるので、ラジオや好きな音楽を聴きながら作業していくことが多いのだが、気付くと旅に行ってくることがある。無心で針を追いながら耳からの情報だけで旅出来る。例えばラジオでインドネシアの音楽や現地の話を聞いていると自分の中の想像が頭の中に膨らんでその土地の匂いや湿度までを妄想してみたり、いろんな記憶がフラッシュバックしたり、音楽が終わったとたん我に帰ることもしばしば。ここに居ながらにして旅が出来たりもする。没入感ハンパないのである。それが私の作品にも表れると言ったら大袈裟かもしれないが、青森の伝統工芸の技法を使ってエキゾチックなものが作りたい願望の表れかもしれない。
また逃避出来ると言った人もいた。
どうしても逃げられない環境に身を置かなければならないとき。例えば介護を家でしなければならない時や子供が引きこもっていて心配で家から出られないなど、そういう場合もここに居ながらにして、麻布と針と糸があれば自分だけの世界を作って楽しめるし浸れる。そこで自分を表現出来るのだ。
こう考えてくると、その昔菱刺しを始めた女性達、先人達は様々な苦労から逃れ、大変ながらもそこに美を見出し楽しい事を想像しながら何かを願うように針を刺し綴っていったに違いないと思えてくる。今も昔も生きていく上では日々何かしら悩みはつきもので、自分を整える作業を何か持っておくと良いかもしれないとつくづく思う。
デーリー東北新聞社提供
2022年5月18日紙面「ふみづくえ」掲載