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ハートの道~ハートの道を歩む者の第一の目的は、「無条件の愛」に到達することです~

『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著 P400~P407

第19章 ハートの道

解説

意識や、思考や知覚の構造、機能に関する情報は、非二元性(アドヴァイタ)の道を歩む探究者にとってのみ必要であると思われるかもしれません。けれどもこの情報は、ハートを通じての献身の道を歩む者にとっても等しく価値があります。しかし、実際の霊的修練においては、実践者のほとんどはこのふたつの道を結びつけています。というのも、これらは焦点の違い、実践方法のスタイルの違いにすぎないからです。

ハートの道を歩む者の第一の目的は、「無条件の愛」に到達することです。直観的なひらめきと献身のエネルギーによって、立ち位置を明け渡すことが促され、結果として神の恩寵に浴することができます。このプロセスは簡単に聞こえますが、実際やってみた人は誰でも、それが思っていたよりもずっと困難であることに気がつきます。献身的な人ならば、無条件の愛に到達するために努力すればするほど、自らが目指している目的地とはまったく異なる要素を招き寄せることに驚かされます。この現象は「愛は憎しみを伴う」という霊的格言によく言い表されています。

愛と平和は”自我(エゴ)”の最大の脅威であることを忘れてはなりません。自我(エゴ)は無意識の奥に深く刻まれた立ち位置を持ち出すことで、自らを防衛しようとします。このような愛のない要素は、人間の脳が受け継いだ、生存のことだけを考える本能的な動物脳に由来します動物脳は幼少期には活発ですが、親や社会の圧力によって無意識の隅に追いやられます。ここで働くのが、よく知られている抑圧、抑制、否認、反動形成、投影、合理化などの心理的な自我(エゴ)のメカニズムです。

このような利己的なメカニズムはさまざまな副人格を形成すると同時に、主要な自己アイデンティティとなります。次に信念と感情が、社会や歴史、文化、仲間、教会、親、そして何と言ってもメディアの情報入力によってプログラミングされます。これらはすべてDNAや遺伝的要因、母性ホルモン、先天的な生物学的必然性の影響を受け、著しく促進されたり妨害されたりします。また、選択の幅は体型(肥満型、中肉中背型、やせ型)などによっても決定されると言われています。

ほかにもたくさんの要素が、人格や自我(エゴ)のコンテント(内容/中身)に影響を与えています。ーー知能指数、社会/経済的地位、身分、健康状態、地理的/環境的要因、幼少時の栄養状態など、こうした要素は目に見えるので、さまざまな化学分野の研究対象となっています。

しかし、これ以上に広範囲におよぶ影響力を持っているのが、目に見えないカルマの”遺産”ではないでしょうか。自我(エゴ)を持った人間として生まれたこと自体が、すでに計り知れない”カルマ的な出来事”にほかなりません。

霊的な自我(エゴ)は、カルマが現前したものとして見ることができます。したがって、”自我(エゴ)の効力をなくすこと”は、カルマをなくすことに等しいのです。なぜなら、自我(エゴ)とカルマはひとつなって働いているからです。「カルマ」という言葉に抵抗がある人は、これを「無意識」と置きかえてもよいでしょう。

克服すべき課題は変わらないとしても、カルマあるいは無意識の観点を持つ人は、次の点でそれを持たない人とは異なってきます。つまり、自らのカルマの経緯をよく吟味する者は、自己憐憫や嫌悪感、怒りから自由になり、人生の”不公平さ”を嘆くことがなくなるのです。

カルマの探究は、特定の課題を解決したいときに非常に有効です。課題を明確にすることによって、数十年ものーーひどい場合は全生涯を費やすーー不毛な霊的修練を回避することができます。カルマの探究の最大の恩恵は、引き出された情報がその問題を再定義し、それを元の場所に戻して解決を促すことにあります。

過去世回帰は、人生に繰り返し起こる出来事や課題の出所を明らかにします。そこで頻繁に見られる心理的な自我(エゴ)のメカニズムは次のようなものです。

1.打消しーー過去のパターンを繰り返すことによって、よりよい選択の機会を得る。

2.反動形成ーー今生、ある極端な見方や立ち位置を持つことによって、その反対の要素を意識の外に締め出す。

3.投影ーー自分にとって苦痛なことを、他者に投影する。

4.抑圧の回帰ーー他者を苦しめたことに対し、今生自らが被害者となって苦しむ。

5.否認ーー動機や思考を、完全に「自分とは無縁のもの」として抑圧し、退ける。

以上のことは基本的な心理学の簡単な復習のようですが、これらは霊的浄化の際に働くメカニズムでもあるので、いつでも思い起こせるようにしておく必要があります。出所は何かが明確に分かっていないと、霊的時間、浄化を経てゆく霊的な帰依者(きえしゃ)は、罪悪感や羞恥心などの苦痛をもたらす数多くの人格特徴を克服するまでに、はてしない時間がかかってしまいます。

カルマもしくは無意識の探究の別の利点と言えば、特定の人格や出来事は特定のコンテクスト(文脈/状況)や時間、場所で発生することが明らかとなり、あらためてそれらを見直すことで、マイナスのエネルギーをなくすことができることです。それらが意識に刻まれた”前世”の時点では、自我(エゴ)は立ち位置に基づいて誤った判断を早急に下しており、自己洞察を通して癒されるまでは、立ち位置はずっとそこにとどまっています。

過去を振り返るとき、前世紀までは人類の全体的な意識レベルは統合レベルを下回る190以下であったということを心にとめておいてください。したがって、人生はもっと低俗で、暴力と残忍さが日常化しており、無知が蔓延していました。意識レベル190の地点では、革命や国、大義、教会のためということで、大量処刑は躊躇なく合理化されています。しかし、同じ行動とその不条理な言い訳は、人類の全体的な意識レベルが207まで上昇した(文明国においては、400台にあります)現代では通用しません。

「意識のスケール」を見れば、現在の自分のレベルの下方にある特徴は、大まかに言えばすでに克服できたものであり、上方にある特徴はこれから取り組むべき、超越しなければならない課題であることがわかります。たとえば、ある人が概して愛情深く、本物の愛を知っているならば(総人口の五%しかいません)、その人のレベルは大体500であることがわかります。次の段階では、愛のレベルを無条件の愛(540)まで高めることがその人の課題となります。

そのためには、愛とは異なるもの、すなわち善/悪、有罪/無罪、報われる/報われないなどの価値判断や日常的な敵意といった、立ち位置に基づくものを見極めなければなりません。これらは対極のペアを示しており、容易に立ち位置を見つけることができます。

けれども、障害は、すべて知覚的な機能そのものによって生じていることに気づかされるでしょう。概して献身的な帰依者は、無理に愛せないものを愛し、赦しがたいものを赦そうとします。これでは必ず行き詰ってしまいます。というのも、”悪者”は永遠に悪と知覚されるからです。二元的な立ち位置がつくり上げた二元性を超越することによってのみ、成功が約束されます。ほとんどの人は、終わりのないプログラムと信念体系によって動かされているので、変わることができないということを肝に銘じておくとよいでしょう。

心(マインド)が、マイナスの傾向を認めることができないのは、そこに罪悪感と羞恥心を持つからです。けれどもその傾向をよく理解し、再定義することによって、それは不愉快なものではなくなり、抑制する必要がなくなります。

わたしたちには先天的に受け継いだ要素があることを念頭におき、それが何であれ、前世の行いは主としてフロイトが「イド」と名づけた原始的な欲動によるものであったことを考えてみればよいでしょう。すると、ほとんどのマイナス要素の母体になっているのは、自己中心性や動物性、野蛮性として表れる原始的な衝動と本能であることが推測できますわたしたちに内在する原始的な動物性は、当然ながら未熟なままで極端に走りがちです。また、その捕食的な衝動は情け容赦ありません。野蛮性は何事も殺しの観点からとらえ、欲するものを手に入れるために暴力やレイプも厭わず、競争相手を虐殺し、自らの欲動をさえぎるものを憎んで敵と見なします。そのような考え方や衝動を”自分のもの”であるとすると、わたしたちの心はたちまち罪悪感や怖れ、否認、投影などで反応することになります。

霊的修練では、神について知るだけでなく、”汝を知る”ことも余儀なくされます。理解が深まると、ハート(胸で感じる心)の道とマインド(思考脳としての心)の道は互いに混ざりあい、知覚によってふたつに分割されていたにすぎないことがわかります。「真実」においては、ハートとマインドの間に分離はないのです。ハートはそれ自身のマインドを持ち、マインドはそれ自身のハートを持っていると言うこともできます。しかし結局は、ふたつは「自己の十全性」の中において、まったく同一のものなのです。(この箇所の記載は975に測定されます。)

【Q:ほかの記述と比較して、なぜこの箇所は25ポイントほど低く測定されるのでしょうか?】

A:それはここでは、自我(エゴ)とその心理構造を幻想ではなく、現実そのものとして取り上げているからです。この記述は、はじめに自我(エゴ)を現実として受け入れなければならないほとんどの探究者を援助するために書かれたものです。自我(エゴ)を超越するためには、先に受け入れなければなりません。けれども、より高度なレベルでは、自我(エゴ)は実体のない幻想として認識されます。

自我(エゴ)に関する知識は非常に有効ですし、後から捨てればよいのです。しかし問題は、霊的な理解によって自我(エゴ)を消滅させる過程において、すでに多くの情報を吸収している心(マインド)が新たに偽装してうまく身を隠そうとすることです。

たとえば、未熟な生徒は自我(エゴ)が幻想だと聞くとすぐに「わたしは自我(エゴ)を信じない。幻想にすぎないのだから」と思い込みます。しかしこの時点では、このように宣言しているのは当人の自我(エゴ)です。「究極の真実」においては自我(エゴ)は存在しませんが、真理が実現されるまでは、自我(エゴ)は自らの目的にかなうなら、たちまち志願者の息の根を止められるほどの十分な力をもっています。自我(エゴ)の狡猾(こうかつ)な戦略をけっしてあなどってはなりません。もっと現実的な方法は、自我(エゴ)の機能を十分に理解し、慈愛をもって癒していくことです。いったん自我(エゴ)が従順になれば、それは自然に日光の中で蒸発してしまいます。

こう‐かつ〔カウクワツ|カウ‐〕【×狡×猾/×狡×黠】 の解説
[名・形動]ずるく悪賢いこと。また、そのさま。「―な手段」「―に立ち回る」

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【Q:今の説明によって、先ほどの25ポイントの制限が取り除かれたようです。現在の測定値は999.9になりました。】

A:あなたは今、非常におもしろい例を示しました。それは、いわゆる”霊的自我(エゴ)”が発達するのを防ぎ、相殺するためのヒントとなります。霊的自我(エゴ)は、ほとんどの求道者にとっての弱点です。有名な霊的指導者でさえもそれにつまづきます。学んだことに対して傲慢にならないために、これから学ぶべきことに焦点を向けて、謙虚さを保持しなければなりません。

自我(エゴ)は実に巧妙です。個人的な自我(エゴ)を霊的自我(エゴ)にすり替えることなどたやすいのです。自我(エゴ)は臆することなく、一気に目的を果たします。霊的な理解に対しても、それが神より授けられた恵みだとは受け取らずに、自分の手柄にします。物語にもあるように、ルシファーは罠を仕掛け、不用心な志願者を待ちかまえているのです。

【Q:では、霊的知識を得ること自体も危険因子となりうるのでしょうか?】

A:霊的教育の欠点といえば、”わたしは知っている”という虚栄心を増幅させ、”霊的ではない人々”を軽んじることにあります。したがって、霊的教育や訓練を受けるときの基本姿勢として、どのように意識が自我(エゴ)になるのか、そのメカニズムについてよく知っておく必要があります。

たとえば、何かの情報を得られたとき、そのことに深く感謝すれば、霊的自我(エゴ)が強固な足がかりを得ることはできません。また、誰かが誰かより”高い”ということもまったく無意味です。意識の測定レベルは、どれだけ幻想が行き渡っているかの度合いを示しているのだということーー「真実」の度合いではありませんーーを念頭におくのも役に立ちます。それは、本当の<わたし>として、どの程度当人が「自己」を自覚しているかを示しています。つまり測定レベルは、被験者が真実に抵抗している割合を示しているのです。

霊的プライドはふたつの方向に働きます。ひとつは、虚栄心を強化する方向で、もうひとつは逆に自己卑下する方向です。「わたしは無であり、彼(神)こそがすべて」と復唱することは、反対の極と同じくらい真理から遠く離れています。「わたしは虫けらほどの価値もない」という立場は、きらびやかな衣装のかわりにぼろ着をまとった虚栄心の表れにすぎません。


今回はここまでです。何回も読むことで、理解を深めています。

動物脳(本能)=自我(エゴ)のずる賢い戦略をけっしてあなどってはなりません。もっと現実的な方法は、自我(エゴ)の機能を十分に理解し、慈愛をもって癒していくことです。

動物脳(本能)=自我(エゴ)の機能はネガティブになるようにプログラミングされていて、生まれた時からみんな装備されています。その機能である「生まれ持った真理」を啓蒙しています。

僕らは無意識に防衛をしています。防衛の機能が、打消し、反動形成、投影、抑圧の回帰、否認、などです。書いてあったように、その防衛を、過去世や、幼少期に強化して、みんな生きています。そのことに気づいて、自分自身を赦し、癒していくことが、愛と平和の地球解放活動となります。

いかに、愛と平和でいることを、自分自身に許可するか。そうである自分自身を赦すか。

動物脳(本能)=自我(エゴ)はそうさせないように必死です。チャクラの面からも気づきのある動画をシェアさせてもらいます。

元動画です。アクエリアスの島さん、ありがとうございます。


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