肉体の死に関する怖れは人間のさまざまな不安を生んでいるので、死についていくつか知っておくことは助けになると思います。【耳で聴いて学習|第14章 考察(前編)】
『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著 P294~301
※2022/10/30追記 耳で聴いて学習 14章考察(前編)
第14章 考 察
【Q:肉体の死に関して、何か分かっていることはありますか?】
A:肉体の死に関する怖れは人間のさまざまな不安を生んでいるので、死についていくつか知っておくことは助けになると思います。死については、あまり知られていませんが、ふたつの重要な認識すべき事柄があります。
ひとつ目は、人は死ぬ瞬間に自分の肉体的な死を体験することはなく、その体験者/目撃者/意識の機能は一瞬にして苦しむことなく肉体を離れ、すぐに解放感に包まれて楽になるということです。驚くべきことに、当人は死なずに、その後も生き続けています。そして、かつての肉体は、もはや魅力的にも望ましいものにも見えません。新しく誕生した自己は、不死性を再発見し、自らが目覚めた新しい可能性に夢中になります。牢獄のような肉体から、いまや解放されたのです。肉体は今まで一度も<わたし>、あるいは存在の感覚の源であったことはなく、単にコンテント(内容/中身)として部分的に同一化されていたにすぎません。
死に対する不安から解放してくれるふたつ目の興味深い真実は、肉体の死はすでにカルマ的に設定されているということです。誕生と共に死期は決まっているのですが、その出来事を取り巻く環境や条件は決まっておらず、他の要因や選択の影響を受けます。そこには、死を象徴的にどのようにとらえているか、人生でどれほどの危険を冒してきたか、あるいは健康面での選択や文化的習慣、罪悪感などの心理的プロセスに加え、さらに重要なのは自我(エゴ)/心(マインド)がどのような信念体系を持っているかということも含まれます。
自分の肉体的な死を経験することができず、死期もすでに決められていると知るだけでも、たくさんの不要な不安感を払拭することができます。わたしたちが経験することのできる唯一本物の”死”は、自我(エゴ)としての自己意識の最終的な死です。その試練も、当人が望まなければ経験することはありません。この実際の死でさえも、内的な同意がなければ起こることはないのです。
自我(エゴ)は自らを肉体と同一視しているので、”死から生還して、それがどのようなものか我々に伝える者など存在しない”と信じています。しかし、それは誤った信条であり、意識レベル600を超えるとなくなります。というのも、そのレベルでは、前世の記憶や肉体の死を簡単に思い出せるだけでなく、それぞれの末期の状況や意味合いを鮮明に覚えているからです。
一般的に意識レベルが200以下の人は、死に対して嘆きや怒り、恨み、喪失感といった反応を示します。けれども200以上の人は死を、意識を向上させることができる学びの機会ととらえます。さらに高いレベルでは、死を、意識を飛躍的に成長させる格好の機会とします。
生前の人生に問われるのは、肉体的に何を体験したかではなく、霊的なレベルで何を学んだかです。人生をひと続きのものとして俯瞰することで、さまざまな学びの段階を経て、意識が成長しているのを確認することができます。
肉体の死後、魂が完全に肉体から離れ、執着を断ち切るまでに、平均で三日を要するといいます。その期間に否定や嘆き、未練をなくすなどの段階を超える作業が行われます。ですから、この分離のプロセスを邪魔しないためにも、一般的に三日間は埋葬や火葬をしないことが望ましいようです。どんな場合でも、キネシオロジーテストを利用して、適切な時間を調べるとよいでしょう。
たいていは、「三日間おいてから肉体の処理をするのが望ましい」というキネシオロジーテストを行うと、「イエス」という答えが得られます。通常、あまり進化していない魂のほうが、進化している魂よりもこの移行期間を長く要するようです。
※2022/10/30追記 耳で聴いて学習後半部分
【Q:自我(エゴ)の核となっているのは自己中心性であるとよく言われますが、霊的な目標は自己中心性をなくす、つまり無自己であることです。これらは、対極のものなのでしょうか?】
A:一見すると対極に見えるものは二元性の幻想であり、立ち位置から自動的に生じるものです。行動の質を決めるのは意図です。自己中心性の意図は獲得することであり、その目的は生存にあります。けれども、自己をなくすことの目的は、与えることと奉仕することです。こうした相反する動機を考察するときに、わたしたちが回避しなければならないもうひとつの立ち位置は、自己中心性や悪を誤りとし、自己をなくすことを善や正義としてラベル付けすることです。これらはただ意識の進化の過程の異なる段階を表す選択肢であるだけで、対極のものではありません。
自己中心性は、その起源を動物界の中に見ることができ、人間の脳に引き継がれた動物脳の名残の働きと見なすことができます。幼児の行動には、それが過剰に見られます。それは生存本能の一部であり、願望や欲求、食欲や生物学的欲動を満たすために機能しています。こうした欲動は、動物がそれを餌や水分、縄張り意識、所有物、交尾の相手などに向けるように、人間生活でも見られます。成人すると、こうした欲求は、所有物や何らかの象徴的な報酬に向けられ、絶え間ない獲得と利潤の追求にまで拡大します。それが過剰になると、欲に目がくらんでいるとか強欲などと呼ばれ、動物界で言えば”群れの雄ボス”あるいは、”群れの雌ボス”の熾烈なポジション争いを見ることになります。
生理学的、心理学的観点から見て、生存と自尊心のための健全な利己主義がありますが、あらゆる行動が「わたしは~が欲しい」です。この欲求は、異常なまでの渇望や中毒にまでエスカレートします。
意識が進化するにつれ、幼児は、生き延びるためには自我(エゴ)の欲求や仮定上の権利や期待が満たされなければならないという子供じみた幻想を手放すことを学びます。すると幼稚で自己陶酔的な自我(エゴ)は、赤ん坊と母親の関係のレベルから移動し、自らの成功と生存は、幼児性を脱して協調することにかかっていることを発見します。その結果として自我(エゴ)は、分かち合ったり、我慢したりすることを覚えて愛や賞賛を得ます。この移行期間は、親が適切に責任をもってしつけをするという報賞制度によって成立します。こうしたしつけが十分になされなければ、幼児性は、それに伴う怒りや敵意、自己憐憫と共に尾を引くことになります。成熟とは、人が非線形的な領域における価値や愛から喜びを得ることを知ることです。すると、幸福とは外側から何かを獲得した結果得られるものではなく、内的な自己充実感であることを発見します。完全に成熟すると、何を持っているか、何をしたかではなく、自分自身がどのような状態にあるかということから喜びが生じるようになります。
幼児期の自我(エゴ)は、つかんだり確保したりすることで何かを獲得しようとします。しかしその後、業績(学校での優秀な成績など)や生産性、あるいは非線形次元での霊的な価値を満たすことによる内的な喜びを得ることを学びます。そして成長するにしたがってより自立的になり、他者を支配しようとすることがなくなります。
自己本位や自己中心性は非常に脆弱で、絶えず防御し、賛同と合意を求めます。しかし自我(エゴ)が成長すればするほど、どんどん自立心が確立し、最終的に幸福感と安心感の源は内側にあることを学びます。この認識に至ると、霊的な目的が非常に重要になり、自らが統合的であるかどうかが幸せの基準となります。こうして意識が進化し、自分と神との関係を完成することが究極の目標となります。
はじめのうちは、神は”外側”にいると信じますが、そのうちに生命の源を”内側”にも同時に感じるようになり、最終的には「臨在」は、”外側”、”内側”のいかなる差異も超越した「存在するものすべて」である「自己」として立ち現れます。「至高」の存在は、内在的であると同時に超越的なのです。
わたしたちはこの意識の進化ー自我(エゴ)のパターンをたどるーを神へと続く、”自己”の道と呼ぶことができます。(自我(エゴ)の自己陶酔的な核心を段階的に捨て去ることで、真の幸福感や充実感、喜びの源は「自己」であることを発見する道です)。虚栄心や思い込みを含めた自我(エゴ)のさまざまな表現は、肥大化した表現であり、自らの考えは貴重で、立ち位置は正しく重要であるという思い込みにとらわれています。自己中心性は、虚栄心と幻想の基盤なのです。
【Q:自己中心性や欲動、貪欲さは不足感から生まれるとよく聴きますが。】
A:それはまったく逆の言い方もできますー自己中心性は過剰な虚栄心と欲望から生まれると、期待や需要には不足はありません。過剰な欲望が不足感という幻想を創り出すのです。あたかもお金の問題が、収入よりも多く使うことによって生じるのと同じようなことです。
現実的なニーズに対する欲求を満たしたときは、一種の達成感があります。それは充足感と安らぎをもたらします。しかし、渇望から動いている人は満足感を得ることができず、いわゆる”太陽神経叢(たいよう しんけいそう)に動かされている”状態になります。表面的な意識の欲望は決して満たされることはありません。
冨や地位、の所有物に対するありがちな欲の他に、欲望はあらゆる方向に向けられます。たとえば、新たな経験や珍しい体験、人間関係、セックス、娯楽、名声、勝利、賞賛、評判、権力、支配、多数のシンボルなどです。
【Q:正常な自己愛や自尊心と、自己中心性との違いは何ですか?】
A:正常な自己愛には他者の福利も含まれますが、自己中心性は他者を排除します。自己愛は他者に対して破壊的ではないので、統合的で自尊心を高めます。自己中心性は分離主義的で他者に損を強いてでも自分が得をしたいので、結果的に内的な自尊心は傷つきます。そのため、とても脆弱で非統合的であり、自己増長の幻想は自尊心の欠落を招きます。
どのようにして欲望や渇望の原動力となっている幻想が働くのかと言えば、欲求の対象に増幅された価値が付加され、この上なく魅力的に見せるからです。しかし、一度対象を手に入れるとたちまちに魔力を失い、魅惑的なイメージは次の欲求の対象に移ります。これは性的関係にもよく見られるパターンで、相手を口説き落とすことが目的なので、手に入れるとたちまちその魅力はくすんでしまいます。
ここでわかるのは、欲求の対象は「真実」の中では存在しておらず、追い求めていたのは肥大化された価値が約束した幻想だということです。魅力は、自我(エゴ)が増幅して投影したイメージで在り、欲望の対象をあたかも幸福の源へと仕立て上げます。しかし真の幸福感は内側から湧き起こるものなので、欲求も欲望も満たされず、いたずらに特別さを外界に投影し続け、ファンタジーを追い求めるはめになります。ひとつの欲求が満たされると、すぐに次の標的に欲望が移り、それはまるでイタヂごっこのようにきりがありません。
立ち位置を段階的に明け渡すことによって意識が進化すると、欲求のメカニズムは静まり、内なる目的を実現することに喜びを見出すようになります。幸せを内側に見つけたとき、自己充実感が欠乏感に取って代わります。わたしたちが明け渡さなければならないのは、欲望の対象ではなく欲望の質であり、増幅された魔法の価値を対象に付加することをやめなければなりません。また、調査によって、この増幅の構造は動物的エネルギーであることがわかりました。生存するために動物は絶えず外界に目を向けてきました。人間独自のふるまいと仮定されるもののほとんどは、霊長類の群れを観察するときに見られる行動とあまり変わりません。大きな違いがあるとすれば、霊長類は声を発することもできますが、コミュニケーションのためにボディランゲージにより頼っているということぐらいです。
いかがだったでしょうか?同じような内容で書いてある文献は、僕は見たことはありません。生まれる前に死ぬ時期も決めていることは、どこかで聴いたことはありますが、死ぬ時に苦しまないというのは、はじめて知ったかもしれません。
死の内容を腑に落とすには、『I<わたし>真実と主観性』の全体を見ないと分からないかもしれません。それこそ、動物脳(本能)=自我(エゴ)の2つの動機は、生存と獲得であり、怖れが基盤なので、この内容を信じようとはしないでしょう。そして、周りの死も、すべては必然のベストタイミングで起こっていることを受け入れられれば、その出来事に対するダメージは少なくなると思います。
人間は死に対してダメージがあるように振舞わないといけないような、暗黙のルールがつくられたと思っています。一番伝えるのが難しいところかもしれません。その人の中にある感情(悲しみ、怒り、怖れ)が揺れ動くのでしょうが、死は、霊体として生まれ変わる誕生であり、そうなったからそうなったの必然で、感謝で送り出すことだと思います。
葬儀に参列するしないという見えるところだけが大事なのではなく、葬儀に行かなくても、心の中で、その人に感謝ありがとうと送り出すことが大事なのだと思っています。
行動するのはもちろん大事ですが、行動そのものよりも、その行動を起こすための最初の心の中の選択がとても大事だと思います。しかし、その選択は他の人からは見えないので、自分にしか分からないし、その自分の選択を、外側から何か言われても、謙虚に立ち位置を変えないでいられるかは、愛が基盤の気づいている心の立ち位置=真(まこと)の心を知ろうとしないと、分からないだろうなと思います。(追記:2022/6/26) 常に、愛と平和の立ち位置で有るのが難しいのは、みんな知っていると思います。なので、有るのが難しい状態、自分自身が愛と平和で有ることができている奇跡が、有難いという言葉になっています。これは、動物脳(本能)=自我(エゴ)の生まれ持った真理のカラクリを知ろうとする意欲がないと、理解できないと思います。
外側はすべて幻想であり、自分がすべて創っている。というのが、本当であり、みんながこれを分かろうと意欲を出す世界が、平和を啓蒙することと同じことになるんだと思っています。
「心は真偽を見分けられない」という原点を素直に受け止められないのは、動物脳(本能)=自我(エゴ)と同一化していて、それを本当の自分だと思っているからであり、だからこそ、外の世界の思い込みの幻想から洗脳されるということです。
この感覚が伝わる人はそうはいないことも分かって書いてます。そのぐらい動物脳(本能)=自我(エゴ)は、分離した個人であるという思い込みの幻想を現実だと思っていることは分かっています。
前回の記事で、「宇宙少女アルジュナ」を出しましたが、ラストシーンが存在するものすべてとひとつであることを伝えてあります。是非、全13章を、時間をつくって見てくださいね。現在の世の中の仕組みに疑問がない人には、気づきは生まれないかもしれません。
死に対する話や、生まれ持った真理の話を、愛が基盤の気づいている心の立ち位置で話せる安心した世界を広げて、平和を啓蒙しませんか?是非とも、今までの記事を活用してください。