コンテクスト(文脈/状況)を再構築する1【幸せの源は今ここにある存在そのものの喜びのうちにあり、その存在の根源である神にあることが明かされます。】
心は真偽を見分けることができない
これは、生まれ持った真理の一つです。人間は、真理を見分ける/見極めることができないがために、執着したり、迷ったり、混乱したり、騙されたり、悩んだりしてしまいます。人間が真(まこと)を見極めることができるなら、戦争や、貧困などは起きないと書いてあります。
生まれ持った真理を繰り返し繰り返し伝えています。愛が基盤の気づいている心をみんな平等に持っているということを知る人が増え、一人ひとりが霊的探究に意欲を持つことが、本来のあなたの力を発揮し、あなたも、わたしも、世界中の人々が優しく安心で幸せになれます。
これは、宗教とは切り分けてください。組織や、お金や、システムでは、構築できない、一人ひとりに対する生まれ持った真理の領域です。真心=与え愛の宇宙文明に近い話です。
ですので、愛が基盤の気づいている心の生き方は、お金儲けを目的にはしません。しかし、愛が基盤なので、最低限の必要なお金は循環し、幸せに生かされます。
生まれ持った真理の話を、まず、聴いてみてください。何となくでも分かるでしょうか?
執着は、自我(エゴ)特有の性質だそうです。『I<わたし>真実と主観性』の本427ページに書いてあります。
【Q:では、どこにでも浸透している執着心が問題であり、それは自己探究のどの道を選ぼうと変わりないという事ですね。】
A:真摯に探究しているならば誰にでも、「自己」の実現の妨げとなるものが明らかとなります。執着心やその必然的帰結、あるいは反発心をよく調べることによって、無駄な時間を費やさずに済みます。
執着心は随所に浸透しており、あらゆる障害の核心的要素です。わたしたちは執着心をよく観察し、その意図が何であるかを問う必要があります。そこには必ず空想や錯覚が付きまとっていますーー身の安全、生存、成功、快楽など。そしてわたしたちは、このような広範な執着心の出処や起源を突き止めることができます。心(マインド=考える心)は、希望や夢や幻想などの特定の価値観に執着し、それと自らを同一視しています。
執着心は、自我(エゴ)特有の性質です。執着心をあたかも現実のようにとらえ、それに価値と信条を与えることをやめれば、あらゆる形態ではびこる執着心を完全に滅することができます。この大いなる一歩は、自らの執着心に無頓着でいるのではなく、相まみえることを意味しています。”自己”や”わたし”に対する執着心は、基本的な落とし穴です。
そこには架空の価値が置かれています。ーー自己は、自らが価値を置いているものに執着するのです。執着心がエネルギーと意図を欲し、それらによって維持されていることはすでに述べた通りです。そして、心は執着すること自体に執着します。--それが生存のツールだからです。自我(エゴ)を手放すことは、神の代用品として、そして幻想として、それ自身に執着することを進んで明け渡すことによって可能になります。
執着心は固執することによってどんどん成長します。幼児は、心地よさと生存の資源である”外側”の経験に固執します。さらに幼児は、生存と幸福の源である外的な要因だけでなく、固執する行為そのものにも執着します。この現象は赤ちゃん猿の実験でも確認することができ、母親から捨てられた赤ちゃん猿の深刻な恐怖心は、布製の代理母を与えることで著しく緩和します。
自我(エゴ)は馴染みのある既知のものに固執します。したがって、手放すことは不確実な未知に直面することを意味し、それは恐怖心を生じさせます。つまり、わたしたちは固執することで恐怖心を回避しているのです。幼児は発育の際に、母親的な行為というよりはむしろ、母親の愛に象徴されるような意図や慈しみによって育つといいます。幼児は線形領域に手を伸ばしますが、彼らは非線形領域から滋養を受けています。そしてその時点で、この基本的なレッスンを学ぶか学ばないかが決まります。愛と生存の源は人に備わっていますから、執着することは、外的に知覚される生存と幸福の源を所有し、コントロールしようという試みです。そして自我(エゴ)は、線形領域の物質的な所有性か、非線形領域の信頼と愛という真理のどちらかを選択します。
第二次世界大戦のロンドン大空襲の際、乳児たちが安全のために地方の施設に送られました。しかし彼らは、身体的なニーズは科学的基準を満たしていたにもかかわらず、うまく成長することができませんでした。発育が悪く、気だるそうで、力なく、体重も減少するなどの悪影響が見られ、死亡率も高まりました。科学的な調査によっても、こうした瀕死状態を引き起こす医学的、栄養的、感染症的要因を見つけることはできませんでした。次に専門の乳母が招集され、彼女たちは乳児を抱きかかえ、愛撫し、面倒を見、愛情を注ぎました。すると奇跡的に乳児たちは発育し始め、体重も増え、死亡率が劇的に下がったのです。
この例は、科学的なモデルの限界を示す非常に興味深い例であり、科学は生命の他ならぬ本質を除外していることがわかります。愛は定義できるものでも測定できるものでもありません。また重さを計ったり、時間や空間の中に位置づけることもできません。しかし、乳児にとって欠くことのできない重要な要素なのです。
通常の発育の場合、母親の愛情は幼児の精神発達に組み込まれていきます。その影響は成人してから現れ、健全な自尊心や自己愛が発達しているか、自分自身の面倒を見られるか、また愛を尊び、返すことができるかなどの能力に関わってきます。したがって、十分に愛を受けなかった子供は、マイナスの感情に支配され、それに釣り合うプラスの感情が育っていません。十分に愛情を受けた子供は自立的ですが、愛に飢えた子供は”物欲しげ”で、執着心や怒りに支配されやすい性質を示します。精神医学では、幼少時代に必要な愛情を受けないまま育った子供は、「愛着障害」に陥りやすく、彼らは後の人生で依存的になりやすいと言われています。
【Q:では覚醒の道は、主として執着心を放棄し続けることによって達成できるのでしょうか?】
A:わたしたちはコンテント(内容/中身)とコンテクスト(文脈/状況)のいずれに対しても、また自分が意図したり望んだりした結果に対しても、執着心を持つことができます。複雑な立ち位置をなくすためには、一度それを分解し、その要因を明け渡すのが効果的かもしれません。たとえば、執着することによってどのような報酬を得ているのでしょうかーー安心感や快楽、”正しく”あることに対するプライド、心地よさや満足感、団体や家族、伝統に対する忠誠心、未知に対する恐怖の回避、などでしょうか。
信念体系をよく調べてみると、それが社会に流布した、よい/悪い、正しい/正しくないなどの前提に沿っていることがわかります。たとえば、「わたしはチョコレートアイスクリームが食べたい」[コンテント(内容/中身)]、「そうすれば幸せになれる」[コンテクスト(文脈/状況)]という構図は、幸せの源は外側にあり、”獲得”しなければならない[全体的なコンテクスト(文脈/状況)]という別の立ち位置から発しています。こうした命題は依存の連鎖を示唆しており(ブッダの縁起の法)、それを明け渡すとき、幸せの源は今ここにある存在そのものの喜びのうちにあり、その存在の根源である神にあることが明かされます。
わたしたちは、幻想に対して執着心を持ちます。けれども、神への愛があれば執着心を手放すことができ、その愛ゆえに、使い慣れた快適さを喜んで明け渡すことができるのです。
【Q:罪悪感や怖れ、怒りをもたらすような好ましくない執着心はどうでしょうか?】
A:このような好ましくない執着心も、ある視点にこだわることによってもたらされます。興味深いことに、感情そのものが報酬になっている場合が多いのです。このような不快な感情を無意識的に求め、価値を見出していることを認めるのは容易ではありません。感情は、”そのように感じるべきだ”とか、”そうあるべきだ”と信じる心(マインド=考える心)が招いています。このような感情のいくつかは、条件反射的に起こっています。そこから自由になるために、同じ条件の中で他者がどのように反応するかを知り、そこに選択肢を見出すこともできます。
心は、願望と反感の中で身動きが取れず、両方とも足かせになっています。反感も、条件的な知覚に対する執着心の表れであり、受容することによって解放することができます。
ここで、精神機能が学習を経た自動的なゲームであり、心をそのゲーム台として想像してみるとよいでしょう。ゲームは勝ち負け、良い気分か悪い気分か、正しいか正しくないかを決定します。わたしたちは、負けることを自由になること、勝つことを重荷を負うこととして見ることもできます。また、それに付随する感情は強制的なものではなく、選択にすぎないことを忘れてはなりません。特定の感情的な反応や信念体系には、”このように感じるべき”という隠された基盤があります。それを分解することによって、信念体系一式を一掃できる場合があります。--それらは同じ基盤から生じているからです。このような能力は訓練によって培われていきます。そして最終的には、すべての強制的な思考パターンを、深い信念体系一式の明け渡しによって一度に手放すことができます。すると、あなたはただあるがままを観察し、それとともに”在る”ことができるようになります。そして、人生のスポンサーとして神を招き入れることができます。人生の細部で頭をいっぱいにすることをやめ、特定の表現にこだわる代わりに、人生全体に完全に関わる決意をすることが助けとなります。
【Q:今の説明は哲学的に聞こえました。】
A:まさにそうです。哲学的見解は、より拡大された意味のコンテクスト(文脈/状況)から生まれます。そしてそのような見解は、それよりも狭い視点を解決に導き、哲学的抽象概念のコンテクスト(文脈/状況)自体を段階的に明け渡すことを可能にします。また、以前はわからなかった立ち位置を明らかにします。哲学的見解のもうひとつの利点は、非個人的な色合いが強いため、より楽に反省したり手放したりできることです。
今回は、427~431ページまでにしたいと思います。
愛が基盤の気づいている心の立ち位置で読むことで、素直に、謙虚に理解できる内容だと思います。読めば読むほど、理解は深まると思います。
日本の大企業のひとつが、「なぜなぜ分析」というものを称賛してやっているので、日本のサラリーマンの大半は、「なぜなぜ分析」を知っているのではないでしょうか。僕は、サラリーマン時代に、何かのせいを示唆する、外の世界の原因を追究していくこの考えがしっくりこないと思っていたので、理由がわかりました。上で述べたブッダの縁起の法と関連しており、依存の連鎖を示唆しています。ブッダが本当に伝えたかったことが、どこかでねじれたことにより真理ではないことが真実です。
幸せの源は今ここにある存在そのものの喜びのうちにあり、その存在の根源である神にあることが明かされます。
幸せの源は、外側の世界ではなく、神の創造主である我々一人ひとりの内側にすでにあることをみんなで共有しましょう。それがわかれば、無限大の喜びを、無条件の愛で、無理なく無理なく放出することができると思っています。
人間は忘れる生き物です。しかし、繰り返し繰り返し意識すれば、定着していくものです。繰り返し繰り返しできるということは、好きであり喜びであり続けることになるのだと思います。
喜び復習用に使ってください。