
「意識の”スケール」は”優劣”をつけるものではなく、進化のプロセスの一時的な”違い”を表しているだけなのです。

『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著 P242~248
第12章 感情 プライド
プライドにも正常で害のないレベルがあり、それはより正確には「自尊心」や「セルフケア(自己管理)」と呼べるでしょう。これは言わば、最善の方法をとって前進することであり、効果的な努力と達成によって、正常な範囲内に満足している状態です。このようなポジティブな自己イメージは、努力した結果として得られるものなので、決して間違っていませんし、必ずしも自我の肥大によるものではありません。それは獲得されたものなので、現実的な基盤が伴っています。
霊的な欠陥と見なされるプライドとは、プライドを振りかざす態度や立ち位置のことを言います。それは傲慢さであり、他者より自分が優れているという思いが、信念や考え、言葉や態度となって表れます。またそれは行き過ぎた自尊心であり、いわゆるうぬぼれです。何らかの成果が基盤になく、労せずして得たものであれば、それは非常に脆いものです。
プライドは弱いので、いつも防衛しなければならず、そのために「けんか腰」になります。「おごれる者は久しからず」ということわざの中にも、その弱さが見て取れます。プライドは恣意的な立ち位置から生じているので力がありません。それは風船のように膨らんだ自我なので、何らかの拍子にすぐに破裂します。プライドは虚栄心なので、お世辞を好みます。虚栄心は、心理的には自己陶酔性が基盤となっている点で、自己中心性と同じです。問題は、他者に対する思いやりや愛情に欠けることです。
さらに厳しく追及すれば、プライドは自己存在の「至高の源」としての神に献身することを拒否する姿勢でもあると言えます。つまりそれは、支配権をめぐって神を相手に密かに競い合っているということです。
また虚栄心は、謙虚さを否定することでもあります。というのも、自我は謙虚さを、降伏や劣等感、あるいは屈辱だと誤解しているからです。本当の謙虚さは、屈辱感とは無縁です。誤った謙虚さも、同じ誤解から生じています。真の謙虚さは、正確な評価から生まれ、そこに価値づけはされません。真に謙虚で的確な科学者は、理論を含めた科学的研究方法の長所と短所、限界をしっかりと認識しています。真の謙虚さを持つ人は、たとえ偉大な功績を上げたとしても、うぬぼれずに深い満足感を得ることができます。したがって、謙虚さを装った虚栄心を持たずに、素直に賞賛を受けることができます。
虚栄心に対する解毒剤は、報恩、感謝、そして満足感です。真の謙虚さは、プライドを介さなくても、事実をただ事実として伝えることができます。謙虚さを持ちながら、少なくとも今は、自分がその分野において最高の偉大な功績を上げたことについて、「はい」と認めることができます。ところが、それに肥大化した自我が介在すると、謙虚であるべきだということで、見せかけだけの謙虚さを示します。プライドをひけらかさなくても、世間は素晴らしい実績とその偉大さ、立場を評価してくれます。本当に偉大であれば、うぬぼれなくても、相応の地位と成果を受け取ることができます。そのためわたしたちは、個人的な自己を役割や地位、職務から切り離さなければなりません。自己陶酔的な自我が肥大化したプライドが基盤となった人格は、往々にして自らの実績とは無関係に、”資格のある”態度をとるようになります。
感情的/心理的に自分が何をしても許されると思うのは、未解決のままの幼児性や自己陶酔的な自己中心性があるからです。それは、境界性人格障害の激しい感情の揺れの中や、自国とその民衆を滅亡に導く自己中心的な独裁者の心の内などに潜む”赤ん坊”です。同じような態度から、家庭内暴力や凶悪犯罪が生じます。犯罪常習者は、他者を苦しめたり、権利を侵害したりすることであっても、自らの欲求をその”資格がある”として、力ずくでかなえようとするのです。
資格があると思い込む自我の肥大化こそが、わたしたちが社会の中に見る悪の根源だと言えます。それは、あらゆる国内の対立や犯罪の源となっています。またそれは、ひそかな”神授王権的”な態度の表れであり、独裁者や征服者が軍によって可能な限りの残忍さで大量殺戮を繰り返してきた長い歴史からみて取れます。
自己中心性には、些細なことに神経質になることによって、自分が傷つけられたと思い、腹を立てたり被害妄想にとらわれたりすることが伴います。このような不安定さは、”キレやすい人”や弱いものいじめをする人、あるいは好戦的な人の中に見受けられ、彼らの被害妄想的なものの見方は、社会のあ
らゆる場所に”些細なこと”を見つけ出してしまいます。こうした人物の多くは、訴訟好きとなり、”悪”を正すために申し立てをしますが、実のところそれは、自らの考え方の歪みから生じていることが少なくないのです。中には抗議することが習慣となって、あらゆる抗議集会やデモ行進に参加する人もいます。
些細なことに対して、それが本当であろうと幻想であろうと、神経質になったり、過剰に反応することは非常に危険です。というのも、それによって激しい怒りが爆発し、凶暴な行動を起こしかねないからです。たとえば、多くの人を殺したり、森林や住宅地に放火したり、雇用主を撃ったり、(”going postal”)(訳注:一九八六年、オクラホマ州にて、郵便局員が上司、同僚、市民、警察官を含む十五人に発砲して殺害し、その後自殺した事件が話題となり、それ以降「going postal(郵便局の状態になる)」)が職場における殺人の代名詞になったことから、”狂気の沙汰、気がふれて暴力的になる”の俗語となる)、 配偶者を殺害するなどといったことが起こります。
資格があるというプライドは、良心が欠落した人格を形成し、それは犯罪や残忍な虐殺の中に見て取れます。自分には資格があるという思い込みは、犯行を”正当化”するからです。街のギャング・カルチャーを見れば、それが公然と行われており、”侮辱”が殺人さえ正当化していることがわかります。
”低い自己評価”が反社会的な行動の原因になっているというのが、社会学的、心理学的、政治学的立ち位置のここ数十年の持論でした。しかし事実はまったく逆で、犯罪者や変質者はたいてい、肥大化した巨大な自尊心を持っているのです。この容易に観察可能な臨床的事実は、メディアが伝えているように、今では一般にも認知されつつあります。
戦争における征服者は、被征服民に対するレイプや略奪を正当化します。また、”正当化された憎悪”は、日々一般市民の平和と幸福を奪い去っています。同質の立ち位置は嫉妬や羨望を生じさせ、それが、人間のネガティブな感情のメロドラマを形作っています。悪意ある行動や感情は、徐々に人間の心を蝕み、多くの人々は人生を自己憐憫や不平不満に費やし、復讐を夢見ているのです。
自己中心性は、過剰な期待を持っているために、”特別”な扱いを受けないと不満ばかり言います。社会はそうした人物のうぬぼれや過剰な要求に対してネガティブに反応します。すると、”資格がある”彼らは恨んだり、悪意を持ったり、また虚栄心や競争心、嫉妬心がとても強くなって、憎しみを抱きやすくなります。
こうした彼らの態度は執拗で、頑なまでに防衛的なので、どんな方法を使っても矯正は困難です。しかし、彼らのうぬぼれはあくまで妄想的なものなので、これは要するに精神病と言えるでしょう。矯正が困難なことは、根っからの犯罪者は投獄しても何も変わらないということを物語っています。精神異常者は、特徴として、経験から学ぶことができないのです。
プライドは、神のために虚栄心を喜んで明け渡すという献身の精神が得られたときに消滅します。霊的に進化すると、自尊心は必要なくなり、何の意味も持たなくなります。プライドも恥も共に自己を重要視する価値判断から生まれます。「真実」においては、”価値”などどうでもいいことです。すべてはあるがままで何の説明も形容も必要ありません。進化した意識にとっては、世界が考えたり信じたりしていることは、何の真実味も重要性もありません。
人間の精神は、あらゆるものを好みや魅力や価値に応じた恣意的な社会のスケールに沿って、格付けしたり、資格を与えたりすることをやめられないでいます。人生は実体のないものを追求するために費やされ、そこではわずかな違いが誇張され、人々は社会的なシンボルを獲得するために奔走します。こうして、はてしなく地位や名誉、財産、あるいは卓越性のシンボルを追いかけるはめになり、しかも同時に何に対しても”正しく”なければなりません。
いわゆる霊的なプライドも、その分類システムが違うだけで、地位を獲得しようとすることに変わりありません。霊的な探究者でいることがプライドになっている人もおり、そのような人は、愚鈍な物質主義者より自分が”優れている”と思います。たとえば、謙虚さを誇るという矛盾もそうです。これを回避するためには、誰でも特定の意識レベルをマスターして、次のレベルに行くためにベストを尽くしていると見ることが必要です。人は、マスターしないうちは、この世界を終えることができないといいます。つまり、「意識のスケール」は、”優劣”をつけるのではなく、進化のプロセスの一時的な”違い”を表しているだけなのです。
逆説的なことに、プライドや霊的なプライド、虚栄心に対してネガティブな評価を下し、地位を追い求める人や俗世的な人間を見下すという霊的なプライドもあります。プライドは覚醒にとっては障害となりますが、現実的な成就となれば、人口の大多数を駆り立てるには格好の動機となります。プライドは、後に必要がなくなったときに払い落とせばよいのです。どのみち、内的な充足感には必要ないからです。
東洋の霊的な伝統では、人間の精神を含む、宇宙のさまざまな作用を大まかに分類し、サンスクリット語で「タマス」、「ラジャス」、「サットヴァ」と名づけています。タマスの特徴としては、怠惰、欲求の欠如、野心の欠如、不注意、関心の欠如、意欲の欠如、反対、抵抗、拒否、自己中心性、ネガティブ性、窮地、心と霊の貧困、ポジティブな感情の欠如などが挙げられます。なかでも代表的な特徴は、惰性と抵抗、欠乏です。タマスからの脱出はしばしば、願望や欲、あるいは怒りさえもが生じ、そして最後にプライドが生じることによって成し遂げられます。
ラジャスは、活発さ、活動、成就、獲得、目標達成などのレベルを表します。次の段階の”高いラジャス”は、最高の機能を果たすレベルで、これは霊的な成長の中で超越され、最終的なサットヴァへと至ります。サットヴァは静謐(せいひつ)、安らぎ、充足のレベルです。このレベルでは、もはや何も証明する必要がなくなり、人生の目標も霊的なものとなり、外ではなく内的世界の充実を求めます。
タマスのレベルでは、着るためのセーターも持っておらず、持っていたとしても汚れていて、穴だらけです。ラジャスの人は、新品の、おしゃれで清潔なセーターを持っています。高いラジャスでは、カシミアのセーターを揃えています。サットヴァのレベルでは、再びお気に入りの古い穴あきのセーターを着るかもしれません。けれども、それは清潔です。
テレビが持つ見えない効果のひとつとして、タマスにとどまる人たちの欲望や怒りを引き出して、ラジャスまで引き上げ、より豊かな生活を求めるように促すということがあります。このように、それぞれのレベルにはそのレベルなりの目的と実用性と価値があります。どのレベルも、相応な霊的成長の段階であるというコンテクスト(文脈/状況)で見られるようになれば、価値判断をすることなく、慈悲深い目で観察することができます。
社会は常に、タマスに陥っている人たちのやる気をどのように引き出すのか、そのためのよりよい方法を模索しています。絶望や失望感の只中にいる人々はエネルギーが枯渇しているので、興味の対象を提供したり、教育したり、あるいはモデルとなるよりよい暮らしを示すなどして、彼らの気持ちを引き上げる必要があるのです。
プライド⑯/24 プライドは、神のために虚栄心を喜んで明け渡すという献身の精神が得られたときに消滅します。

2024年も残り6日となりました。2025年、人類の意識がさらに進化するように祈念して、171記事目投稿します。