常に、自我(エゴ)/心(マインド)は世界を経験しているのではなく、その知覚を経験しているのだということを覚えておくとよいでしょう。
『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著 P235-237
タンポポの種は空気中に漂い、その行き先は種の形と吹く風の相互作用によって決まります。このタンポポの種のように、人間は肉体を与えられましたが、異なるのは、人間には心(マインド)と霊(スピリット)という舵があり、自分で行き先を決め、責任を取ることができるという点です。しかしつい最近まで、人は舵を持ってはいても、コンパスを持っておらず、無知さゆえに責任を取ることができませんでした。人間は太古より神に従順であれと教えられてきたにもかかわらず、神とはどんな存在でどのようなものであるかを知りませんでした。そして、何世紀にもわたって、霊的な真理はすっかり歪められ、神に最も献身的な人々でさえも、誤った信念に惑わされ、神を称え、喜ばすために、罪のない子供や民衆を生け贄にするという極端な行動をとっていました。
わたしたちは”悪”という言葉を口にする必要がありません。それは、感情を刺激する言葉です。その代わりに、自己陶酔的な利己主義、自我(エゴ)の肥大、無知、集団ヒステリー、動物的な衝動による精神病質的/犯罪的行動化などと描写する方が適切です。これらの行為は、愛の不在によって特徴づけられます。
【Q:そうした人類の惨事に対してどのように距離を置くことができますか?】
A:より広いコンテクスト(文脈/状況)を持つことによって、より公平な視点を持つことがでます。人間の意識は、動物から始まり、幼児から好奇心旺盛な若者、そして成熟した大人へと成長していきます。しかし、新人類たる「ホモ・スピリタス」まで成長することは、ごく稀と言えるでしょう。数千年も前から、霊的なインスピレーションを得た才能ある個々人やグループが存在していたにもかかわらず、その数が伸びることはなく、彼らの明らかな影響力は反対勢力や歪曲によって制限され、損なわれてきました。わたしたちは人生の盛衰を変動として眺めることができ、それに蔑視的なラベル付けをする必要がありません。人生は最高の学校なのです。
立ち位置から離脱することによって(特に、ラベル付けから起こる立ち位置)、わたしたちは平安と自由と安心を得ることができます。より大きな平安は、コンテント(内容/中身)ではなく、人生のコンテクスト(文脈/状況)に目を向けることによってもたらされます。というのも、コンテント(内容/中身)は自我(エゴ)同士がぶつかり合うゲームボードにすぎないからです。このように人生に対し、より大らかに臨むことで、さらなる慈悲心が生まれ、世界に振り回されることもなくなります。
常に、自我(エゴ)/心(マインド)は世界を経験しているのではなく、その知覚を経験しているのだということを覚えておくとよいでしょう。メディアは感情と感覚に巧みに働きかけ、イメージや言葉を利用して、感傷や憤りを誘発したり、猥褻(ワイセツ)な好奇心を満足させたりします。しかし、ありのまま直視することによって、反応の誘いを退けることができます。すべての人生に盛衰があります。誰もが生まれ、苦しみ、死んでいきます。幸せもあれば、悲しみもあり、災難もあれば、成功もあり、上昇に等しく下降もあります。株式市場も上下します。病気や事故も来ては去ります。人生というカルマ[=無意識]のダンスは、宇宙のカルマ[=無意識]の劇場で立ち現れるのです。
人生に対する反応はすべて主観的なものです。耐えられないようなひどい経験も、楽しかったり、悲しかったり、よかったり、悪かったりするようなことも、実際は何ひとつとして起こっていないのです。ですから、厄難、災害がなぜ”起こる”のか、罪なき人が”あんな目に遭うなんて”、”なんてひどい”、”誰かのせいに違いない”などというような見方をするのは無意味です。より大きな視点を持つことで、わたしたちは人生のコンテント(内容/中身)やコンテクスト(文脈/状況)にかき乱されることがなくなります。そのためには、価値判断や期待、”過敏さ”を手放さなければなりません。
物事の潜在的可能性は、条件(環境)を変更することによって、修正することができます。その現象や物事の傾向のバランスに影響を与えることによって、いかようにでも変えられるのです。たとえば、ある山火事に遭遇した賢い目撃者が、新聞記事の中で、「火事そのものはよくも悪くもない。それは、地域の状況を反映する」と述べています(Paxon,2002)。住民にとっては”悪い”ことでも、森林にとっては長期的に見て健全で自然で”よい”こともあるのです。
「真実」においては、出来事などありません。始まりも終わりもないのです。背景はいつも静かで静止していて、映画によって乱されることはありません。生命の一体性は、人の目には多様性として知覚されます。世界の出来事をリアルに見せているのは、「自己の輝き」です。映画そのものには、知覚されるような現実は本質的に存在していません。現実感とは、実際には完全に主観的な意識の内にあります。仮に、独立した、客観的実在があるとしても、それを知覚するのは人間の内的な主観性なのです。
今回はここまでです。
ここで、もう一度、太字にした部分を復習をしたいと思います。
そして、何世紀にもわたって、霊的な真理はすっかり歪められ、神に最も献身的な人々でさえも、誤った信念に惑わされ、神を称え、喜ばすために、罪のない子供や民衆を生け贄にするという極端な行動をとっていました。
わたしたちは”悪”という言葉を口にする必要がありません。それは、感情を刺激する言葉です。
これらの行為は、愛の不在によって特徴づけられます。
数千年も前から、霊的なインスピレーションを得た才能ある個々人やグループが存在していたにもかかわらず、その数が伸びることはなく、彼らの明らかな影響力は反対勢力や歪曲によって制限され、損なわれてきました。
より大きな平安は、コンテント(内容/中身)ではなく、人生のコンテクスト(文脈/状況)に目を向けることによってもたらされます。
このように人生に対し、より大らかに臨むことで、さらなる慈悲心が生まれ、世界に振り回されることもなくなります。
常に、自我(エゴ)/心(マインド)は世界を経験しているのではなく、その知覚を経験しているのだということを覚えておくとよいでしょう。
人生に対する反応はすべて主観的なものです。
ですから、厄難、災害がなぜ”起こる”のか、罪なき人が”あんな目に遭うなんて”、”なんてひどい”、”誰かのせいに違いない”などというような見方をするのは無意味です。
物事の潜在的可能性は、条件(環境)を変更することによって、修正することができます。
「真実」においては、出来事などありません。始まりも終わりもないのです。
生命の一体性は、人の目には多様性として知覚されます。
現実感とは、実際には完全に主観的な意識の内にあります。
知覚とは
常に、自我(エゴ)/心(マインド)は世界を経験しているのではなく、その知覚を経験しているのだということを覚えておくとよいでしょう。
ということは、自分の知覚を知ろうとすれば、今現在の自分の在り方が分かってくるのだと思います。
どのように、あれを、これを知覚しているのか。(ものの表面性状、固さ、温度を感じる。形状や色、動きを見分ける。食物を味わう。音を聴く。さまざまな要素から成り立つ環境からの物理化学情報を私たちは感覚として知覚(自覚)している。)
動物脳(本能)=自我(エゴ)と同一化している時はネガティブに知覚し、愛が基盤の気づいている心の立ち位置では、ポジティブに知覚している。しかし、知らぬ間(無意識)に立ち位置が変わることをわかっていないと、外の出来事に一喜一憂したり感情を振り回されたり、さらに、メディアは感情と感覚に巧みに働きかけ、イメージや言葉を利用して、感傷や憤りを誘発したり、猥褻(ワイセツ)な好奇心を満足させたりします。
人間には動物脳(本能)=自我(エゴ)があるので、猥褻(ワイセツ)な好奇心が大なり小なり存在する正体も分かった上で、その知覚を、純粋な愛が基盤の気づいている心の立ち位置で知覚することができるか、なんだと思います。
「生まれ持った真理」の正体を見抜いた上の立ち位置がとても大事だと思います。
いかに、純粋に透明になれるか。500愛、喜び540、平和600、700-1000純粋な意志です。
そのためには、一つの方法を言葉にすると、自分の知覚を知り、受け入れ、赦し、楽しみ、喜ぶ。
自分の知覚は、愛が基盤の知覚か?たとえ、そうでなくても、それを受け入れ、赦し、愛が基盤の知覚にしようとする意識があるか。になってくると思います。
いつも、知覚が平和、喜び、愛であれば、外の世界で何が起きても、世話なしの状態です。
ネガティブな知覚が全てなくなることが、覚醒だと思います。
しかし、動物脳(本能)=自我(エゴ)=考える心の、執着はしぶといから、チンピラとか出てきたりしますが、そのしぶとさをユーモアで楽しめるかはとても大事です。動物脳(本能)=自我(エゴ)=考える心は、本当のわたしではありません。
ローマは一日にして成らずと言うように、「生まれ持った真理」を知っても、腑に落とすには繰り返し繰り返しが必要です。
今ここで、生かされている奇跡、新たな気づきを喜びで知覚しながら、共に愛の地球解放に進んでいきましょう。
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