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クロスオウヴア 05
■■■ プライヴィット1 ■■■
「ねえ、おにいちゃん。」
「ん。」
「おにいちゃん。どうしたの。今日は御機嫌そうね。」
「どうして。」
「だって、いつもだったら、人前で『おにいちゃん』って呼んだら怒るじゃない。さっき学校にいる時からずっと『おにいちゃん』って呼んでるけど、今日はそれを気にもかけていない様子だったわ。」
「あっ、そうだったけな、うん、いや、考え事、をしていたから、気付いてなかったんだよ。」
佑右は側の草をピッと引きちぎると、少し上に放り投げるように風に流した。二人は木野川の堤防の斜面に腰掛けていた。学校から自転車で十五分ほど走れば、そこは木野川である。少し下流には洛東電車の鉄橋がかかっていて、十分おきくらいに上りか下りのどちらかの電車がカタンカタンと軽い音をたてて通り過ぎる。
「ところで今日は何。わざわざ教室まで来て。」
沙紀は佑右に尋ねた。沙紀は佑右と同じ三桐高校生で一つ下の一年生である。佑右と沙紀は小学校のころまで同じ町内に住んでいた。沙紀が小学校に入学した時、佑右は二年生だった。集団登校といって、彼らの学区では通学の安全のために、同じ町内の子供が集まって学校へ登校する仕組みになっていた。佑右の街は十五年ほど前に開発されたまだ新しい住宅地で、佑右の一家はその住宅地の第一期の購買者だった。だから佑右が入学した時は地域全体の人数も少なく、その町内には小学生は佑右とあと一人の六年生がいただけだった。そして翌年六年生が卒業すると、二年生と言っても佑右が最上級生になったのだった。そこへ越してきたのが一年生の沙紀だった。同じ町内だから上級生の佑右が年長者として、新入生の沙紀の手を引いて学校までつれていってやることになったのだ。しかし、やがてどんどん入居者が増え、佑右の町内にも新しい小学生が増え、ある時を境に男子は男子、女子は女子で登校するようになり、佑右と沙紀もいつの間にか話をする機会もなくなっていた。
そして六年生のある日、佑右の母親は言った。
「あなた知ってる。沙紀ちゃんの家、引っ越したんだってね。」
「ふーん・・・」
まさに「ふーん・・・」という感じだった。最初に沙紀を学校まで手をひいてつれていった時は、二年生でありながら、なんだか自分がずっと大人になったようで、おれがこの子をちゃんと学校までつれていってやらなければ、という責任感に溢れていた気がする。でも一緒に通うこともなくなって、佑右の現実から「沙紀」という実体はちょっと遠ざかっていたのだ。
「もしかしたら妹っていうのはああいう感じのものなのかなあ。」
そのころ、もうほとんど話をする機会もなくなってはいたが、初めて会った頃を思い出し、もう会えないと思うとちょっと心が痛んだ。
あれから五年。今年の三桐高校の入学式の時、在校生の代表として頭数合わせに出席させられた佑右は、どこかであったような懐かしい顔を新入生の中に発見したのだ。それが沙紀だった。
「あれ、どっかで見たよな。ええと、どこかで会ってるぞ。ううむ、・・・ああ、確か小学校の頃、近所にいた、あの子。あれ、なんて言ったっけ。」
佑右は遠い昔にあった人や、一度しか会ったことのないような人を見分けるのが得意だった。幼なじみなど、人込みの中でも先に見つけるのは必ず佑右の方だった。新入生のその女の子も、昔とはすっかり変わってはいたが、絶対に小学校の時のあの子だという自信があった。
式の終わった後、新入生たちはそれぞれの教室の前にはり出された名簿を見て、自分のクラスを確かめていた。その一種特異な集団の中に紛れ込まないように注意しながら、佑右は遠巻きに、掲示されている名簿の一組から順に名前を追っていった。三桐高校はどちらかと言えば理系の学校なので、女子の数は男子のおよそ四分の一くらいであった。だから、名前をさがすのは比較的楽な作業だった。
「なんだったっけな。ちょっと変わった名前だったな。確か名字が三文字で…。」
新鮮な気持ちで、なんだか不思議に輝いている新一年生の背中を見ながら、おれも去年はこんなのだったかなとちょっと気恥ずかしく感じながら、佑右は名簿の字を追った。
「いのうえはるこ、きだゆうこ、しのやまのぞみ、たむらひかる、てらおかまさこ、ならきみえ・・・・・わだまりえ、ここじゃないなあ。」
隣のクラスの掲示板の前へ行った。
「あさかよしえ、うだかやこ、かみやがわさき、つのやま・・・、かみやがわさきぃ? ああ、ああ、そうだそうだ、そうだ思い出した。あいつは紙屋川沙紀だ。やっぱり昔近所に住んでいたあいつだった。」
自分の記憶が正しかったのを確認して、佑右は一人にやにやしながら掲示してある沙紀の名前を見つめていた。しかし、にやにやしていたのは自分の記憶が正しかったからだけではない。さっき在校生の席から見た横顔の沙紀が、ずっと大人の、そして結構佑右好みの可愛い女の子になっていたからだった。
「おにいちゃん」
突然声をかけられてびっくりした。沙紀だった。新入生の中に交じらないように、最後列から見ていたはずなのに、後ろからとは、佑右はふいを突かれた。
「えっ、あっ、ああ。」
どう返事をしていいのか分からなかった。背中をポンとたたいて回り込んできた沙紀が目の前にいる。しかも、昔のままに「おにいちゃん」って呼んだ。
「あの、え、沙紀ちゃ・・・ん。」
「うん沙紀。おにちゃんでしょ。うわあ、覚えてくれていたんだ。うれいしいっ。」
佑右が入学式の最中に沙紀を見つけたように、沙紀もまた佑右を、式場に入場する時に見つけていたらしい。同年代の女の子から親しく声をかけられることがこんなにも照れくさいことだとは佑右は思わなかった。ましてや五年ぶりの沙紀である。周りの新入生たちの視線を感じて、佑右は戸惑ってしまった。そして、
「ああ、ひ、久しぶり。うん、元気? 元気、そう。うちに入学したの。そう。あっ、お、ちょっとおれ、まだ、ん、あの、式場の講堂のあとかたずけ、があるから、また、な。」
とだけ言うと、さっさと立ち去ったのだった。その足でもちろん講堂へは行かず、人目のつかない食堂の裏手の木陰のベンチへ行くと
「いや、びっくりしたね。びっくり、びっくり。」
と、まんざらびっくりしたようでもなく頬を緩めながら一人でつぶやいていた。