クロスオウヴア 10
■■■ プライヴィット 6 ■■■
「ところで『プライヴィット』ってどういう意味。」
「『PRIVATE』だよ。」
佑右は空に綴りを書く真似をしながら言った。
「それって『プライベート』じゃないの。」
「訛ってるよ。『プライヴィット』、だろう。ミス結花がいってたじゃないか。」
ミス結花は才媛である。英語が専門だから英語が堪能なのは分かるけど、物理や科学、数学なんてのも得意らしい。結花は二十八才。彼らの学校の英語の教師である。英語はぺらぺらだが、特に発音が美しい。本人ははっきりとは言わないが、うわさによるとオックスフォード大学出身で、流暢なクィーンズイングリッシュを話し、卒業まで大学の友人たちには生っ粋の日本人だと信じてもらえなかったらしい。
「ねえおにいちゃん。もしかして結花先生にこれなの。」
沙紀は両手の人さし指と親指でハートの形を作りながらいった。
「バカ言え、おれがあんな年増・・・」
確かに佑右はミス結花のことが好きだった。好きといっても恋愛感情ではない、ただのあこがれみたいなもんだと思っていた。頭はいいし、性格も女とは思えないほどさっぱりしていて、いわば『兄貴』の様な感覚で『好き』だったのだ。できれば教室の大勢の前ではなく二人きりで、勉強の事でもなく、なんというか、人生観とでもいうのだろうか、彼女の生きざまの様なものをもっと聞きたい、一緒にゆっくりと話してみたいと思っているのは事実である。しかし、実際に佑右が女性として思いを寄せているのは、今、そばにいる沙紀である。沙紀に対してやわらかな恋愛感情を持っていることを佑右は自覚している。だから結花に対しては、それが恋愛の感情だとは少しも思っていなかった。教師と生徒という立場だから、どこかでブレーキがかかっているのかもしれない。沙紀に対する気持ちとの折り合いが付かなかったせいかもしれない。しかし佑右は、人がそういう倫理観とは別に、同時に二人の人を愛することができるって事を、まだ理解していなかった。理解していたとしても、そんな複雑な内面の心理を誰かにうまく、また冷静に説明できるほど大人ではなかった。第一この複雑な感情を引き起こしている原因の一つである沙紀に、佑右が自分の口から話せるわけがなかった。
沙紀はいわゆる「女子高生」ではなかった。それが佑右には好ましかった。ブランド物を欲しがろうともしないし、スカートの丈も膝上ぎりぎりくらいで、上品で健康的な美しさを魅せていた。佑右は流行を追っている同年代の女の子の、その自分という根っこのなさがどうも好きになれないでいた。でもはっきり批判するのもなんだか頭の固い大人に迎合しているようで嫌だったのだ。だから沙紀にはさり気なく
「おれって、ああいうのはさ、なんか違うと思うんだ。」
と言ってみたことがある。沙紀の普段の服装や趣味を見ていると、おそらく佑右の意見に同意してくれるだろうと思っていたからだ。しかし沙紀は、意外にも
「そおお。だって、あれもかわいいじゃないの。」
と「女子高生」ファッションを肯定したのだ。
「あんなミニだって、もうほんのちょっと年をとったらできなくなるのよ。今のうちに楽しんでおかなくっちゃ。」
佑右にはファッションを「楽しむ」っていう感覚はなかった。
「でもさ、あんなパンツ見えそうな丈なんて・・・おかしいよ。」
「あら、みんな見えないようにちゃんと計算してるのよ。あっ、おにいちゃんたら、そんなとこばかり見てるんだ。ヤラシー。」
「違うよ。見てないよ。だから、そういうこと言ってるんじゃないよ。」
佑右は左手にはめていたFIを乱暴に外した。
怒ったのかも知れない。ちょっとからかいすぎたかなと、沙紀は上目づかいにそっと佑右の表情をのぞきこんだ。
「沙紀もやってみなよ。」
FIを沙紀に渡しながら佑右は言った。
「どうするの。」
「親指を内側に少し倒すとシフト、もっと倒すとオプション。外側でコマンド、いっぱいでアクセサリ。通常は人さし指がアイコンの操作で、ここを押してごらん、するとプライ人に影響を与える環境メニューが、あっ、すぐ放さないで、長めに、そう・・・」
いつもと同じで、怒ってはいないようだった。
確かに佑右の作ったソフト「プライヴィット」は素晴しかった。「プライ人」は生きているように反応し、言葉を覚え、正に「成長」しているように沙紀には見えた。
「これって、どんどん賢くなってゆくの。」
「ああ、そうだ。どんどん賢くなって行く。思考力は人間より劣るだろうが、暗記力はすばらしいぜ。なんたって彼らの記憶はPHCのメモリに蓄えられて行き、人間の様に忘れ去ることがないんだからな。『記憶量』は単純にメモリの量に比例するから、『記憶』を検索する能力をもっと高めたら、あるいは人間よりも高い『知性』を持つようになるかも・・・」
初めはぎこちない反応をしていたプライ人も、ほんの小一時間程の間で目覚ましい成長を遂げていた。言葉を覚え、文法を理解し、プログラム通りに行動しているだけとは見えないほど、しっかりとした論理的な行動と発言をするようになっていた。確かに『意識』を持っていると考えても全く違和感がない。
果てしない可能性を秘めたソフト「プライヴィット」。しかし「プライヴィット」の可能性も、「可能性」という言葉の持つ二面性をも、二人はまだ知らなかった。
夢中になってを操作していた二人は、WVDの光が眩しく感じられるようになって、いつの間にか空が暗くなってきているのにやっと気付いた。
「ああ、もう夕方だな。帰らなきゃいけない。」
「ねえ、おにいちゃん。このソフトはいつ完成させたの。」
「アイデアを掴んだのは先月。枠組みを完成させたのは今月の初めだ。そして第一号のプライ人をソフト上に置いたのは昨日だ。」
「じゃあ、このプライ人の誕生日は六月二十二日ってことね。」
「ああ、そういうことになるな。記念すべき彼の誕生日は六月二十二日。」
「ねえ、あなたの誕生日は六月二十二日よ。」
沙紀はWVD上のプライ人にそう話しかけた。
「アナタノ誕生日・・・私ノ、私ノ誕生日ハ六月二十二日。・・・サキ、アナタノ誕生日はイツデスカ。」
自分自身で「水の公園」と名付けたメイン画面の公園の、噴水の前のベンチに腰掛けて、プライ人は沙紀に尋ねた。
「あら、私に聞くの。私の誕生日は一月八日。January8。何かプレゼントでもくれるのかしら。」
もうすっかり違和感なくプライ人と意思の疎通を行っている沙紀は、コロコロと笑いながら冗談を言っていた。