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「名言との対話」11月23日。倉田洋二「常に戦友のことが頭にあり、生き残った自分がやらなくてはとの思いがとても強かった」

「名言との対話」11月23日。倉田洋二「常に戦友のことが頭にあり、生き残った自分がやらなくてはとの思いがとても強かった」

倉田洋二(1927年ー2019年11月23日)は、海洋生物学者。享年92。

1941年、14歳の時に南洋庁水産試験場職員として生物研究のためパラオに渡る。その年に太平洋戦争が勃発した。1944年、戦況悪化に伴い現地召集され、パラオアンガウル島守備の任に着いた。9月、米軍はアンガウル島に上陸。地獄のような戦闘が繰り広げられる。玉砕を禁じられ、終戦後約2年間も、小さな島でゲリラ戦を挑み、アンガウル島の動植物を食べて生き延びた。アンガウル島で戦った約1200人の日本兵の中で生還した約50人の1人となった。

戦後、東京都職員としてウミガメの食用研究を進め「カメ博士」と呼ばれた。小笠原水産センター所長などを務めた。

退職後の1994年、「戦友の墓守をしたい」とパラオへ移住した。パラオには1953年に建立された「戦没日本人之碑 日本国政府 内閣総理大臣 吉田茂」という碑など、慰霊碑26基と観音像が日本の方向を向いて建てられていた。2008年に移転を求められ、倉田は日本で募金活動を行い、寄せられた350万円ですべて移設し、平和公園として整備し、戦友たちの墓守としての役割を果たしている。倉田は、戦争を背負って生きたのだった。

倉田は2015年の天皇・皇后両陛下のパラオでの慰霊に、戦死者名簿を携えて立ち会っている。4年後の2019年2月の宮中茶会に招かれてたとき、「戦友に代わり、もう一度『ありがとう』と伝えたい」との思いから、「陛下にお会いできるのもこれが最後と思い、やってきました」と語った。11月に92歳で逝去。

第二次大戦中の激戦で亡くなった戦友を偲んで、戦後日本の再建に邁進したり、慰霊をなぐさめるために小説に書いたりする人を多く見てきたが、墓守として現地に移住までした人を初めて知った。風前の灯だった戦友の慰霊碑を守り、平和公園を整備したことによって、彼らの魂は安らかに眠ることになったのだ。

パラオ歴史探訪』という本がある。副題は「倉田洋二と歩く南洋群島」である。パラオ第一次大戦の後に、日本の委任統治領となった。日本とパラオの深い関係、平和の尊さを学べる本だ。第1章は日本統治時代の遺構の紹介と戦跡。第2章は倉田洋二の遺稿で、座談会での発言や講演の内容が記録されている。


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