不思議な夢をみた 〜 「邪馬臺」 さだまさし
こんな夢をみた
ゴッホに憧れ、画家となった私。
とある展覧会で、ゴッホによる作品「アルルの跳ね橋」をまるで風景の中に溶け込んでいくかのように念入りに鑑賞している。
どのくらい時間がたっただろうか。ふと気が付くと私は、いつしか絵の中に入りこんでいた。
どうやら、ここはゴッホが生きていた時代、彼が住んでいた場所らしい。では、彼はどこにいるのか。
私は彼を探した。彼は「カラスのいる麦畑」にいた。彼は耳の傷を覆うように布を巻き、色彩について、絵画でのその表現について、自分に残された時間の少なさについて苦悩していた。
いつしか、彼もまたその風景を抜け出し、彼自身の作品の世界を渡り歩いていく。彼が自作の中を渡り歩く後を、私はついて行く。
そう、私は彼の作品を体験したのだ。体感といっていいかもしれない。二次元の絵画の世界を立体的に理解したのだ。
そして、彼自身の命と共鳴し、彼の絵の中にある燃えるような感情や生命力をも体感したのだ。(黒澤明「夢」より「鴉」)
不思議な夢をみた
かつて、雲仙のふもとに、一人の盲目の詩人がいた。
彼の著作によって、それまで語られることのなかった卑弥呼の支配した邪馬台国の所在地についての論争が沸き起こる。
いまだに結論を見ていないそれは、畿内に存在したという説と、九州説に二分され論壇をにぎやかにしていった。そしてこの論争は、一般である我々の間にも広く広まり、邪馬台国という神秘に満ちた太古の存在への興味を喚起することに寄与した。
歌詞の中で彼は、いつしか時空を超え、太古の昔を彷徨っていた。
そこは邪馬台国があった地。噴煙を吐いている雲仙を見上げる場所。彼の魂は、その空間と一体となった。
そこに、一艘の舟が静かに滑ってくる。そこには彼自身が乗っている。この船は異国から来た舟だろうか。
遥か異国からやってきた一艘の舟を迎えるのは誰か。その人物は彼を招き、長い旅の疲れをいたわるかのように、そっと抱きしめる。
幻の人が、盲目の詩人を抱きしめている。
このときこの詩人は、太古の昔に存在した国の空気を吸い、その国を統べていた人物の体温に触れ、匂いを感じた。彼が求めた国と大地と、彼が追い求めた人物を五感で感じた。
そう、彼は、栄位をふるったこの国や、この国を統べる人物の命と共鳴し、燃えるような感情や生命力をも体感したのだ。
彼の夢は、彼の死後、彼の魂によって果たされた。
こんな夢を見た
時間の存在を考える。
時間というものは概念的な存在であり、ただ、今がそこに在るだけ。過去も未来も今も混在となって、今という現実がただそこに在る。
そんなことを現代物理学や現代科学は解き明かしつつある。
父が亡くなったばかりのある日、ふと夢をみた。
とある場所に自分はいた。とある家の前。なぜか、懐かしい場所。見覚えのあるサクランボの木が見えた。おそらくそこは、祖父母が暮らした、今は亡き父が、叔父叔母が育った家だ。
何故か自分はそこにいた。時代をあえて考えるとすれば昭和40年代だろうか。とある青年たちが見える。きっとその中に父がいる。自分はその場面をそとからぼんやり眺めている。
話しかけようか。
と思った瞬間目が覚めた。
そう、その時僕は、父の命と共鳴し、その町の当時の空気を感じ、若かりし頃の父の燃えるような感情や生命力をも体感したのだ。
誰かへの思いは時空を超える。おそらく超えるという時空というものは存在しないのだろう。そしてある日、自分にとって必要なところに誘われる。夢を媒介として。夢想の境地にいるときの周波数を道しるべにして。
不思議な夢を見た。