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銀色の魂の過積
この体に刻んだ刺青には僅かばかりに魂が籠もるようにと、おまじないがしてある。
彼女の姿になぞらえた疵痕に、魂の一欠片を分けてもらうことにしたのだ。
彼女―――名をギンコさんという。
銀色の毛並みを持った化け猫である。人の心を喰いものにする、人を魅了する化け猫である。
彼女と暮らしたのは僅か三年ばかり。
それですっかり僕の心は彼女に蝕まれた。虜になったともいう。
十八のみぎり、実家を出た際に彼女とは離れ離れになってしまったが、僕の心の一部は、彼女の獣じみた鋭い牙に一噛みされ、すでに彼女に奪われていたものだから、離れてからの方が慕う気持ちは強くなった。
だからであろうか。
まるで逢瀬の約束を果たすかのように、二十歳になった僕は、自らの身体に彼女の姿を刻むことにしたのだ。
「猫には九つの魂があるのだから、一つ分けてもらうといい」
刺青師はそう言って、僕の体を刻んだ。
刻まれると痛く、針刺されると痺れ、ぐっと噛み込んだ奥歯がぎりぎりと鳴る。
痛みとは耐えるものではなく味わうものだということに、まだ若かった僕は気づくことも出来ず、情けなくも目尻に涙を溜めたりもした。
施術が終わり、それでしまいではない。
刺青とは疵なのだから、疵跡となるには治癒しなくてはならない。
治癒する過程でかさぶたが出来、かさぶたが剥がれ落ちるとそこには刻み込んだ色が残る。
かさぶたの一部がうまく剥がれず、しっぽの一部が欠けてしまった。
そこは彼女がよく自分で噛み付いて、毛羽立っていた場所で、その欠けたしっぽが余計に愛おしかった。
二週間もすると、僕の体に彼女の姿が入り込んでいた。
生きているかのように、体内を蠢く彼女の気配を感じた。
九つの魂の一つ、僕の皮膚の中に潜んでいておくれと願う。
「あなたと肌を合わせると、その間に猫が一匹紛れているの」
ある人からそんなことを言われたことがある。
その人はよく、彼女へと口づけをしてくれた。
「頭を垂れて挨拶をしなくちゃ。私は泥棒猫なんだから」
そっとギンコさんが刻まれた僕の肌へと、その人の唇が触れるとどうにもむず痒い。どうやらギンコさんは他の女が苦手であるようだった。
「僕の顔はきっとすぐに忘れるだろうけど、彼女のことは忘れないであげて欲しい」
恋人にそう言うと、ひどく寂しい顔をされたのも覚えている。
「あなたの顔を忘れて、彼女の姿だけ思い出す。そんな夜の切なさをあなたは想像出来ないのね」
にゃおん、とギンコさんの代わりに鳴いてみる。
「私を温めてくれているのは猫なの? それともあなたなの?」
鳴いて返事はしないでおく。
僕にだってそれはわからないのだから。
実家には顔を出せぬまま、幾年も経ってしまった。
歳を重ねて一人前とは程遠いものの、実家を訪れた時には、ギンコさんはすでに老いた猫になっていた。
僕の体のギンコさんは、二十歳の頃よりなにも変わらないのに。
実際のギンコさんは少し痩せて、歯も抜け落ち、けれど以前よりも美しくなっている。
「化け猫っぷりに拍車がかかったじゃないか」
話しかけるとギンコさんはえぇ、と頷いた。
参ったことに人の言葉だってわかるようだ。
「顔を見せずに悪かったね。貴女の分身を可愛がってくれている人を連れてきたんだ」
この時、僕は妻となってくれる人を実家に連れてきていた。
この日から再び家を離れるその日まで、ギンコさんは寝る時もずっと僕の傍に居てくれた。魔性は健在であった。
その内、他に猫を二匹飼うことになっても妻は僕の体のギンコさんにつぅと指を滑らせ言った。
「最初の猫はギンコさんだから後から来た二匹より可愛がらなくちゃいけない。だってギンコさんは君をずっと守ってくれてたんだもの」
いつの間にやら守り神に祀られて、いい迷惑だろう。僕の人生に寄り添うなんざ、守り神というよりも子守だろうに。
そんなギンコさんが、九つある内に八つの魂を使い切ってしまったのだと、聞いた。
化け猫は一張羅の衣を返却し、十六年という渡世の暇を終えたのだ。
使い切った魂と身衣置いて勝手気ままで身軽な旅にでも出るのだという。
そうならば。
僕の身に刻んだ最後の魂も、返せというだろうか。
夜の帳に紛れて現れ、ざらざらの舌を伸ばして皮一枚、舐め取って行ってしまうだろうか。
「だったら、貴女が奪った僕の心と引き換えだ」
貴女が十六年という時を経て、煩わせ続けた甘露の想い。
この想いと引き換えならば最後の魂、返してやろう。
それが出来ぬと言うのなら今しばらくは。
僕の肌にぬくもりあるうちは、そこを寝床に暖を取り、変わらぬ姿のままでいておくれ。
いつしかにゃおんと一声鳴いてくれとは言わないが、そうだね。
色褪せぬ貴女の思い出の象徴としてこの身に住んでいてはくれないだろうか。
そっと疵痕撫でて、想う。
おしまい。