階下から聴こえるギターの音色⑪歓喜にふれる
今あたらしく書いている
絵本の企画は、歓喜がテーマです。
ふれた歓喜を、そのまま描きたいのです。
歓喜って、なんだろう。
歓喜って、いのち
なんじゃないかなと思います。
オージャスは、可視化するとしたら
ギーによく似ているんだそうです。
そんなふうに、もし
いのちを実感するとしたら
歓喜にふれるときの
わきあがる感じ
それなんじゃないかと思います。
いのちを
歓喜と呼び
歓喜を
いのちと呼ぶとして
それは、絵本においてもう
たくさんの作家や詩人が
表現してきたと思います。
わたしも、書きたいのです
歓喜を。
こみあげる愛を
絵本にしたい。
オージャスを
ギーとして観られるように。
絵本として開いて読める
手にとって眺められる
歓喜。
わたしはそういう者になりたいです。
そのようなことを2月に
自分のノートでペンで書いていて
今、タイプしながら
まったく同じ気持ちです。
いいとかわるいとかじゃ
ないはずなのに、
絵本として成立させていくために
歓喜を幕のむこうに隠して
いろいろをそぎおとして
それでも歓喜がもれひかってるみたいな
そういう装置としての原稿。
それにむきあいながらも
ふと、空を仰ぎます。
自分がまず満たされることが
いちばん大事な仕事だなあと
ふにおちています。
それと、稼いでいくことを
一致させていく
そんなトレーニングのまっさい中。
仕事、使命という経験は
成長させてくれますね。
えみさんのいう「全体」は
わたしには、
まだ作家自身も見えていない物語。
それは、書き手のいのちの輪郭。
みちしるべはそれしかなくて
それからは、はずれようもない。
でも、
それを捉え続けることは
とっても繊細で、力がいる。
力みではない。
「とらえつづける」としか
言いようのないまなざしのむけかた。
エネルギーのむけかた。
感じ方。
感じ続けること。
感じられないことから逃げずに
感じられない領域に
ひかりをあてるよう
はぐくむよう
信じること。
歓喜であること。
歓喜で満ちていることを
知っていること。
どんな夜にも。
今日はエッセイというよりも
ほんとうに、つれづれであり
書き残しておきたいメモだな。