みんな違っていいのだ
「美術館へ行くことが趣味なんですよね」
そう言っていたら、アート好きだと思ってもらったらしく美術関連のお誘いを受けるようになった。画廊やあちこちのスペースで毎日のように行われている、展示会だ。ほとんどが鑑賞目的ではなく、購入を対象とした現代アートの展示。ほぼ初耳のアーティスト名ばかりだった。いや、そんなアートを買う余裕も飾るスペースもないんだけど、なんでまた私に声がかかるのか。とはいえ、とんでもないブルジュアが集まる世界に足を踏み入れる機会もなかなかないだろうと、誘いは断らずに体験として足を運ぶ。
会場に到着するとマネジメントや、画家ご本人が迎えてくれることもあった。そして説明を聞きながらアートと対面する。詳細は割愛するけれど、説明を聞いても「(重ための)……へえ」くらいしか発することしかできない。おそらく次から次へと矢継ぎ早に飛んでくる質問や、感嘆を期待されているのだろうけど、私には現代アートが今ひとつ分からず。タッチの力強さ、CMYKに切り替えた場合の色の濃淡くらいなら、脳内で分析している。でもその先の気の利いた言葉が出てこず。「おいくらですか」と不粋な質問で、その場の空気を冷やす。すみません。
ふと。前述のような空気を昔も味わったことを思い出す。昨今のクリエイターには疑われそうだけど、私が20代で出版社の社員時代にはカメラマン、イラストレーター、スタイリスト、ヘアメイク、そしてライターといった雑誌に関わるフリーのスタッフがそれぞれにブック(自分の作品をファイルにまとめたもの)を編集部に持ち込んで、編集部員に売り込みをする。私の直属の上司だった人が「とにかくたくさんのスタッフに会って、知識を増やせ」が信条だったので、私もそれに従って、気になる人には片っ端から電話をしていた。いまだに現場でお世話になっているスタッフもいる。
肌感だけの話だけど、カメラマンの作品は「あ」と、生意気ながらピンと来るものがあった。写真の特徴を頭で読み込んで、自分がこれから作ろうとしているページとリンクさせる。単純に好き嫌いもある。いいじゃん、人間だもの。ただ他の職種のスタッフとなると、若干違う。日本人以外のモデルを使ったというめちゃくちゃお洒落な”作品”を見せられて、説明を受けても「(重ための)……へえ」が出動。今だから言えるけれどよく分からなかった。ただ現場でご一緒すると、リクエストの飲み込み方、俊敏さ、あれこれで「ありがとうございます!!」という結果。あのブックで見たハイセンスとはかけ離れた撮影でも、滞りなく仕事をしてくださることの方が優先だ。
自分の乗り遅れたセンスをなんとかしようと、あれこれ本を買い込んで勉強したこともあるけれど、雲消霧散として終了。どうにも興味がついていけなかったらしい。ただこんなシーンは日常のあちこちに溢れている。SNSがその代表格になるのかもしれないけれど、洗練された生活、ブランド、食事。全てが写真に収まるような毎日。そんなことを追っかけていた日々もあったけれど、どうにも性分に合わなかったらしい。予約が数ヶ月待ちのネオ中華よりも、町中華で好きな男と瓶ビールを飲んでる方が楽しい。真っ白のブランドパーカにも憧れたけれど、30分もあれば汚すという恐怖に耐えきれず(クリーニングへ持ち込む面倒さなど)、大人しくユニクロを買った。これでいい。みんな違っていいのだ。
でもね、若いうちはみんな背伸びして、頑張って、追いかけてほしい。そういう身の丈に合わない欲望や、興味、情動が必ず自分を救ってくれるから。年取ってくるとそういう背伸びが物理的に辛くなってくるので、好きなものしか周囲に置かなくなるので、今のうちに踏ん張って、背伸びして。
ちなみに話を戻すと、私が美術館好きであることは間違いない。これは古美術が好きな母親の影響を受けただけで、現代アートまで興味は発展していない。一番好きな画家はロートレック で、あちこちで作品を観てきた自分のデータを統合すると1800年代あたりのヨーロッパの絵が好きらしい、と、自分の趣味趣向の糸をたぐっているような状態。専門的なことは何一つとして知らんという有様。
ではなぜ美術館へ行くのかといえば、過去のアートに触れるたびにパワーをもらうことができるからだ。今よりも物質、文化がままならなかった時代に生まれたナラティブは、近くにいると思うだけで高揚感に包まれる。買おうとしたら国家予算レベルになってしまうので、ポスター購入で気持ちを留める。そしてまたエネルギー補給をした脳でまたパソコンに向かう。企画書作りと、原稿。頑張ります。