指輪と百科事典 セールス担当者が知る秘密
連載『コピーライトラウンジ』 (第8回 2015年6月)
月刊「パテント」(日本弁理士会)から転載(全14回)
「大学院への進学が決まった時にね、父がプレゼントをくれるって。カレッジリングか、『ブリタニカ』百科事典か、どっちがいいかと尋ねてきたのよ」
今から30年以上まえ、米国の大学院に留学していたころ、同級生のエリザベスが言いました。カレッジリングとは、大学紋章と卒業年が刻み込まれた大ぶりの指輪です。暗に出身校を示すことができるので、一時よく流行りました(今、あまり見かけませんね)。
「で、どっち取ったの?」
「もちろん、ブリタニカ。本当は指輪が欲しかったけど見栄を張っちゃった」
「へえ、でもなぜ、その2つなのだろう?」
「値段(当時で15万円ぐらいか)が同じぐらいだからよ」
◆「権威の象徴」が「時代遅れの象徴」に
ワープロも電子メールもなかった時代の話です。学生の身では国際電話は使えませんでした。片道1週間かかるエアメールだけが私を日本に結びつけていました。
しかし今、ちょっとした調べものはインターネット上の各種サイトで解決できます(100%信頼はできませんが簡単に裏が取れます)。
もはや「百科事典と指輪、どっちが欲しい」聞く父親はいないでしょう。
百科事典の代名詞『ブリタニカ』は1768年にエジンバラで発刊されました。
以来、世界中で「知の宝庫」「権威の象徴」の地位を守り続けてきましたが、1999年、とうとう全32巻のすべての内容をネット上で無料提供するようになりました。
気の遠くなるような230年もの歴史をかなぐり捨てたわけです。情報技術(IT)の圧倒的な波にさからえなかったのですね。ネットが家庭に進出するようになった1995年ごろから、わずか4から5年でITの大津波に呑み込まれたのです。
小学生でさえ、宿題にネットを使う時代に、指をなめなめページをくる百科事典の存在意義を認めることは難しい。
実際、あらゆるビジネススクールで、「ブリタニカはネットの最大犠牲者」としてケーススタディーの対象となりました。「権威の象徴」は「時代遅れの象徴」となったのです。
◆紙の百科事典の利点?
書籍型の百科事典に対して、インターネットでの検索にはどんな優位性があるでしょうか。すぐに次の6点が思いつきます。
(1)コスト面で圧倒的に有利。タダ同然で情報チェックできます。
(2)「検索」そのものが楽。わずかのキーボード操作でらくらく。
(3)ホットな最新情報が得られる。かつての百科事典には、「STAP細胞事件」や「ドローン問題」など時事問題をタイムリーな形で掲載することが出来ませんでした。しかし今では、「キューバ危機」と「米国とキューバが急接近」の記述が同じ土俵に乗ります。
(4)場所を選ばない。スマートフォンやパソコンがあればいつでもどこでも調べられます。
(5)コピーアンドペースト(コピペ)機能で、調べた内容をそのまま二次利用できる。
さらに加えると、
(6)文字の大きさが調節できるので、私のようなアラカンにも読みやすい。
対して、「30数巻の(製本された紙の)事典」の優位性は何でしょうか。
うーん、思いつきません。
かつてなら、応接間を飾る目的もあったかもしれませんが、応接間(何と懐かしい響き!)そのものが姿を消した時代に、平均的な家庭で30巻もの書籍を並べておく場所はありません。
もしかして「コピペがやりにくいため、紙版の事典は教育現場で効果がある」という人がいるかもしれませんが、「手書き」の宿題やペーパーでも他人の表現を盗む人はいるので、本質的な問題ではないでしょう。
◆「お子さんの教育のためです」
実は「オンライン時代の百科事典」について、ビジネススクールではもうちょっと鋭い分析がなされています。それは、百科事典の普及には、訪問販売のセールススタッフの決めぜりふが長きにわたって有効だったという話です。
「お子さんの教育のためです」
この言葉は、英米であれ、日本であれ、百科事典を売りさばくセールススタッフの殺し文句として効果を発揮しました。
セールススタッフはある秘密を知っていました。
秘密とは「百科事典は購入後、最初の1カ月は家庭の誰もが手に取る。しかし、1年も立てば利用されることはない」ということです。
だから、インターネットが普及する前から、百科事典は普通の家庭にとって「子供の教育のための必需品」でなく、ステータスシンボルとして応接間やリビングを飾っていたに過ぎなかったのです。
この点に注目したマイクロソフトのビル・ゲイツ氏は、安物のPC用百科事典「エンカルタ」を自社ソフトにバンドルし、「子供の教育」というあまたのお父さんやお母さんの弱みにつけ込んで、突破口を切り開いたのでした。
1990年代後半、百科事典の値段はパソコンと拮抗していましたが、その後、急落しました。
ヤフオクで見ると、今では30数巻セットが2-3千円で手に入りそうです。ITの進展と著作権の話をしようと思っていたのですが、それは、また次の機会に。
(了)
みやたけひさよし 東京理科大学大学院イノベーション研究科教授。日本音楽著作権協会(JASRAC)理事。共同通信社記者デスク、横浜国立大学教授を経2012年から現職。著書に『知的財産と創造性」(みすず書房)など。元ハーバード大学客員ジャーナリスト(NiemanFellow)。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?