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NHKスペシャル「熱狂は世界を駆ける〜J-POP新時代〜」を拝見して

今回の記事は、評論口調で書いています。


死に体からの復活


昨夜、NHKで放送されたNHKスペシャル「熱狂は世界を駆ける〜J-POP新時代〜」を拝見した。

4年前、コロナ禍の中、音楽業界は死に体に等しいような状況になった。
ライブは軒並み中止になり、音楽番組もそれまでのライブ形式による放送から一変。
過去の映像を流したり、リモート出演をさせたりと、苦肉の策を取って、なんとか視聴者に音楽を提供しようとした。

また、アーティスト自身も観客の前で歌うことが出来なくなり、歌う場所を失った。
そういう中、自身のSNSのチャンネルを使って、歌を配信したり、ファンに話しかけたり、と、いかに音楽に繋ぎ止めておくかという方法を模索していた。
中止になったライブの代わりに、会場を借りて、ひとりぼっちのライブを配信する。
とにかく「音楽の熱量」を絶やさない工夫をさまざまな形でアーティストも含めて業界全体が続けていた。

しかし、そういう状況が、実は世界に遅れを取っていた日本のデジタルコンテンツを使っての音楽発信という部分を一気に加速させるきっかけになったのではないか、と思う。

当時、日本は、音楽のデジタル音源化やデジタル配信という部分に於いて、世界から遅れを取っていたと感じる。
K-POPがコロナ禍をきっかけに世界を席巻するコンテンツに育ったのは、韓国ではデジタル産業やデジタルコンテンツが当たり前だったからだ。
さらにダンスと歌の融合性を特徴とする「見せる音楽」であるK-POPは、MVを使って、映像と音楽の世界を早くから構築していた。
その為、コロナ禍でリアルにライブが出来なくても、映像を使ってのライブ配信や楽曲の提供などの対応が非常にスムーズに出来たのだろう。
また、音楽の特性から言っても、映像との合体は、K-POPを世界に広げるのに強力な武器だった。
そうやって、コロナ禍の中、K-POPは、音楽コンテンツの中の1つのジャンルというポジションを確立したのである。
韓国に限らず、世界中にファンを作り出したのは、映像の持つ力と言っても過言ではない。

しかし、日本は映像と音楽の一体化という部分では大きく遅れを取っていた。ミュージックビデオというものを軽く扱い、そこに価値を見出そうとしなかったからだ。
CDの売り上げというリアル産業に固執してきた為に、MV制作にそれほどの力を入れてこなかったのも事実。
それがコロナ禍になり、映像というものを嫌でも意識しなければならなくなった。また、ネット、SNSというものを使ってしか、音楽を発信出来ない状況に陥ったことは1つのきっかけになったかもしれない。
兎にも角にも、コロナというものの影響を大きく受けて、音楽産業は前へ進まざるを得なくなった。

さらに映像との一体という部分で、アニメとのコラボがある。
元々、日本のアニメは世界的に評価が高かったが、熱心に観る層は限られていたかもしれない。
しかし、コロナ禍の中、在宅を余儀なくされ、娯楽というものが限られた中で、日本のアニメが多くの人に観られる環境は整っていたと言える。
アニメ業界も映画館での新作の公開延期などの影響は大きかったが、Netflixでの配信など別の媒体を使っての興行は可能だった。
またイベントやライブが次々に中止する中で、エンタメに渇望していた層を取り込むことに成功したかもしれない。

アニメ作品の主題歌というものは、以前からアーティストが歌うものが多かったが、作品の世界的ヒットによってJ-POPが世界に広がる1つの土壌になったと感じるのだ。

J-POPにとって、アニメは強力なパートナーになった。
主題歌を通してアーティストを知った層が、そのアーティストの他の楽曲をyoutubeを通して知るようになり、それがファン層を拡大、構築していく。
そういう構図が、この1、2年のJ-POPの世界的広がりと人気の要因の1つではないだろうか。

ファンになってもらう為には、先ず、存在を知ってもらうこと。
これが重要なのだ。

今まで欧米の音楽を聴いてきた層がJ-POPというものを知る。
現代の10代、20代、また30代の一部のアーティスト達は、その上の世代と違い洋楽の影響をそれほど受けていない。
彼らの上の世代は、洋楽の影響を受けつつ、自分達の音楽を作り上げてきた。
しかし、その下の世代の多くは上の世代が作った和製ポップスを聴いて育ち影響を受けてきた世代だ。
その世代が作り出す音楽は、さらに和製ポップスであり、洋楽とは一線を画していると感じる。

日本人は、既存のものを自分達の価値観に合わせて再構築することが得意な民族である。
音楽も、洋楽からの影響を受けて作られた和製ポップスにさらに自分達の価値観や感覚を取り入れ独自のポップス音楽を作り上げていく。
そうやって進化してきた現代のJ-POPには、さまざまなジャンルがあり、雑多な音楽なのである。
さらに、この雑多な音楽を受容する寛容な価値観が日本社会にはある。
この寛容さが、日本社会の特徴であり、成熟でもある。
アーティスト達は、自由な発想で何にも縛られることなく自分達の音楽を発信する。
この自由さがJ-POPの一番の特徴であり強みだと私は考える。

日本語が世界を駆け巡る

7年前、私が音楽評論を専門に書こうと決めた時に印象に残った三浦大知の言葉がある。
正確に覚えているとは言えないが、彼は、「自分が歌う日本語の曲が世界の街角で流れている。人々は、「今度の大知の曲はいいね」と言いながら日本語を口ずさんでいる。そんな光景が見たい」というような主旨の発言を読んだ記憶がある。

私は、これに非常に感銘を受けたのである。

彼は、その頃、日本人で最もグラミー賞に近い存在と言われ、日本よりも海外の評価の方が高かった。

「日本語の歌が世界の街角に流れている」

それは、想像するだけでなんと魅力的な光景だろうか。

私はその数年前に日本で活躍していた韓国の東方神起がベトナムだったかで行ったライブの映像を観たことがあった。
そこでは、彼らが歌う日本語のJ-POPの楽曲をベトナム人のファンが大合唱しているのだ。
日本語を何も知らない、何も話せない彼女達が、好きな東方神起が歌っている、というだけで歌詞を必死に覚え日本語で歌っている。
その光景を見た時、なんとも言えない感動を覚えた。

なぜなら、日本以外で楽曲を歌うのには英語が必須だと思っていたからだ。
しかし、そうではない。
日本語の歌が流行れば世界中の人が日本語で歌を歌うようになる。
そんな夢のような光景を目の当たりにして、日本人として気持ちが高揚したのを覚えている。
だから、三浦大知の「僕の日本語の歌が世界の街角で流れている」という話に、それが本当に現実になればいいと思った。


今、世界を目指す日本のアーティストが増えている。
藤井風、米津玄師、Ado、YOASOBIなど、名前を挙げたらキリがないほど、多くのアーティストがアジアや世界でツアーを展開している。
また、Number_iのように、日本でのトップのアイドルにとどまること無く、アメリカの音楽フェスで無名のアーティストとして実力を試そうとするグループもいる。

世界の場所で、アーティスト達は、堂々と日本語の楽曲を歌い、観客も日本語で合唱する。
以前、RADWIMPSの野田洋次郎がヨーロッパや南米などのライブで、アニメの主題歌を英語で歌うと、「観客から「日本語で歌って」と言われ、会場で日本語の大合唱が始まるのに感動した」という話をしていた。

今回の番組で映されたCreepy Nutsや新しい学校のリーダーズのライブでの映像も、皆、日本語で歌い、会場と一体化している。
そして、日本語で歌っている観客は実に楽しそうだ。
そこに言語の壁はない。
「日本語だから、世界には通用しない。世界に出ていくには、英語で歌わなければ」という過去の価値観は今や幻のものと言える。

韓国では、日韓パートナーシップが締結された後も何十年も日本語の楽曲が流れることはなかった。
しかし、昨年、アニメ「推しの子」の爆発的ヒットを受けて韓国の音楽番組に招待されたYOASOBIが日本語で歌う映像が放送されてからは、堂々と街中で日本語の楽曲が流れ始め、日本のアーティストのライブはチケットが即完売する。

「日本語がこんなに綺麗だとは思わなかった」
「J-POPを聴いていることを堂々と話せるようになった」

韓国では今、J-POPが大ブレイク中だ。

日韓の音楽関係に於いて、韓国の音楽が一方的に日本に流入してくるだけの時代は終わった。
かつて、隠れてJ-POPを聴いていたと言われる中高年齢層の韓国人が会場に多く詰めかけ若者と一緒に日本語で歌う。

J-POPの強みはアーティスト層の厚みと音楽の多様性にある。
70代後半を過ぎてなお現役で歌い続けるアーティストの楽曲を、世代を超えて若者が享受する。
そうやって優れた楽曲はカバー曲として何十年も受け継がれていく。

日本の音楽の広がりは、まだまだ止まりそうにない。
そう思った夜だった。




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