満月の日の物語① 「5月7日」
物語をはじめる前に
ずっと自分の中にあったふわふわしたものや、
夢で見たものを物語にできたらいいなと
ささやかに思っていました。
そして今日は、わたしの星座、さそり座の満月。
月へ想いを馳せながら、
綴ってみようと思います。
「満月の日の物語」は、
毎月、満月の日に投稿します。
1話読み切り、若しくは2〜3話読み切りの
満月に纏わるショートストーリーです。
それでは、5月の「満月の日の物語」
どうぞご覧ください。
満月の日の物語①
「5月7日」
「もう、最悪…」
今日は朝からついてなかった。
お気に入りのワンピースのチャックが壊れ、急いで家を出たら犬のうんちを踏み、なかなか臭いがとれないまま出社。なんとか気分を上げようと、昼食に社食のからあげ定食を注文したのに、野菜炒め定食が出てくる始末。
いや、野菜炒めも美味しいよ。だけど、今日は大好きなからあげ定食を食べたかったのよ。間違えてますよって言いたかったけど、社食のおばちゃんたちも汗だくだくになって頑張ってる姿見てたら、もう、なんか言えなかった。お昼時で忙しいしね。
頭の中で絶品のからあげを想像しながら野菜炒め定食を食べて、午後の業務もなんとかこなした。
なんだか今日はついてない。
こんな日はどこにも寄らずにまっすぐ帰ろう。
18時の終業ベルが鳴り、私は会社を後にした。
帰宅ラッシュの駅構内には、毎日たくさんの人でひしめき合っている。
早く帰りたい。皆がそう思っているのだろう。
私もそうだ。
今日はもう早く帰って、早く寝てしまいたい。
最寄駅の改札を出て、外につながる下り階段を降りていると、遠くにまぁるい月が見えた。
今日は満月だっけ、とても明るいなぁ。
と、思った瞬間、
グキッ ズザザザザザ
一瞬のことで何が起こったのかわからなかったが、冷静になって自分を見ると、階段を踏みはずして下まで落っこちていた。
「いったぁ……」
おしりで階段を降りるように滑り降りたせいで、おしり全体がじんじんしている。幸い足からは血など出ていなかったので、たいした応急処置はいらなかった。
「お…おしりが…いたたた……」
なんとか体勢を立て直し、起き上がろうとしたら、足に違和感がある。
そーっと下を向いてみたら、右足の靴が無残に壊れていた。靴底がぺろんと剥がれ、かかと部分は切れて左右に割れている。
買ったばかりの、ここ最近で一番のお気に入りだったパンプス…
「もう、最悪…」
とりあえず直せるような術はないし、テープのようなものも持っていない。このまま履いて帰れる状態じゃないとすれば、脱いで素足で帰るしかない。最近は暑い日も続いているが、昨日の雨で今日は少し冷える。冷たいアスファルトの上を素足で帰らなきゃいけないなんて。
皆家路を急いでいる。階段の下でしゃがみこんでいる私なんてまるで存在してないかのように、皆足早に通り過ぎてゆく。おしりが痛い。どうにもならない状況に泣き出してしまいそうになる。
泣くもんか、必死に涙を堪えようと、壊れたパンプスと共にうずくまっていると、頭の上から声が降ってきた。
「あの…大丈夫ですか?」
この人には私が見えるの?
そっと顔を上げると、白くて細身の男性がこちらを覗いていた。
「転んじゃったんですか?怪我はないですか?
あ…靴が壊れてますね…」
私のところまで降りてきて、目の前にしゃがみこんだ。
「はい…
月を見ていたら階段で足を滑らせてしまって…
靴も壊れるし、おしりも痛いし……」
「そういえば、今日は満月ですね」
やっぱり満月だったんだ。
満月の日は、引力の影響で、事故や怪我が多いらしい。なにかの本で読んだことがある。
「お兄さん…テープか何か、靴を応急処置できるようなものって持ってませんか?
私、何も持っていなくて、もう素足で帰るしかないかなって思ってたんです」
「テープありますよ。簡易的にはなりますが、やってみますね。靴、お借りしてもいいですか?」
お兄さんは、とても慣れた手つきで、ぐるぐるっと靴をテーピングしてくれた。
「すごい…一瞬で履けるようになった…」
「お姉さん、この靴とても大切そうに抱きしめてたから、もしかしたら、お気に入りの靴だったんじゃないかなって」
「そう、買ったばかりの、最近で一番お気に入りの靴だったんです…」
「……靴職人がつくる、オーダーメイドの靴って、履いたことありますか?」
「オーダーメイドはないですね。いつも既製品を履いています」
そういえば以前、立ち寄った展示会のDMで
"靴のオーダー承ります"みたいな案内が来てたっけ。その時は、オーダーメイドはなんだか私には敷居が高そうで、興味はあったがそのまま時が流れていた。
「僕、靴を作っているんです。まだ見習いなんですけど…近くに靴の工房があるんです」
「えっ、お兄さんが、靴職人さん?」
だから壊れた靴も一瞬で直せたのかな。
「まだ、見習いなんですけどね…
よかったら、その、お気に入りに代われるかわかりませんが…
僕らがつくっている靴、見てみませんか?」
今日は早く家に帰る予定だった。
テープぐるぐる巻きのパンプスで歩くのも恥ずかしい。
だけど、ちょっとだけ寄り道してみたくなった。
お兄さんが、私を見つけてくれたから。
「靴、見てみたいです」
優しく微笑んだお兄さんは、
色白で、ちょっと目が細くて、小さい頃に絵本で見た月のうさぎみたいだなぁと思った。
工房に着くと、お兄さんは
「ちょっと待っててください」と言って、
裏側から回って中から鍵を開けてくれた。
工房は古い蔵のような建物で、隣には古民家が並んで建っていた。
「どうぞ」
中に入ると、壁中の木棚にずらっと並んだ革靴と、木の靴型が目に飛び込んできた。
そして鼻いっぱいに広がる革の独特な匂い。
「うわぁ…すごい…!
これ、全部作ったんですか?」
「これは、僕の師匠がつくったもので、
僕はまだこれくらい…」
そう言って持ってきたのは、靴になる前の模型のようなものだった。
それはまだ、完成された靴と比べれば、外に履いていけるようなものではなかったが、丁寧に細やかにつくられていることは、素人の私でもわかる。
「素敵……!
私は、靴の世界は全然わからないけど…
お兄さんの靴、きっとすごく良いものができると思います」
お兄さんは一瞬私を見た後
ちょっと照れくさそうにしながら、
「師匠には毎日怒られますけどね」
と言って目を逸らした。
「女性ものだとこういうデザインがあります」
「わぁ…こんなにたくさん…どれも素敵ですね」
並べてもらった靴は、どれも美しく、しゃんとしていて、そして作り手の心が見えるようなあたたかみがある。
「よかったら、履いてみてください」
そっと足をいれると、大きな手で包み込まれてるような安心感と、自分の足に吸い付くようなフィット感があり、今まで履いたことのない心地になった。
「とても履きやすいです!
でもそれだけじゃなくて、なんだか、あたたかく包み込まれてるような、優しく抱きしめてもらってるような、この感じ、はじめてです」
「僕の師匠は、靴づくりを通して、その人らしさを大切に、心の、体の支えになれるような靴をずっとつくり続けています。
誰かのためにつくる靴。僕もそういう靴をつくりたいと思っています」
棚に陳列されている靴は、男性ものから女性もの、赤ちゃんサイズや、大きさも形もいろんなものがあり、そしてどの靴も、みんな違った形の愛で溢れていた。色んな世代の方から、この靴工房が愛されているのだとわかった。
「靴のオーダーメイド、本当はずっと興味がありました。でも、なんだか私には敷居が高そうで、ずっと遠くから見てるだけで…
今日も朝からずっとついてなくて、夜もこんなことに…
でも、おかげでこんな素敵なところを知れて
私、今日転んでよかったなんて思いました」
ふふっと笑うと、お兄さんもまた、あのうさぎみたいにふわっと笑った。
「僕も今日、外に出て、あの時間あの場所にいて良かったって思いました」
ここ最近はなかなか靴づくりがうまくいかず、師匠にも怒られる日々だった。誰かのためにつくりたいのに、その誰かがわからない。工房の中で一人行き詰まっていた。
今日は満月。ちょっとでもパワーがもらえないかと、久しぶりに外へ出てみたら、階段の下の方でしゃがみこんでいる人を見つけた。
行き交う人々の中、たった一人、世界に置いてけぼりになったみたいに小さくうずくまって、壊れた靴をぎゅっと握りしめて、今にも泣き出してしまいそうだった。
その姿がなんだか今の自分と重なって、つい、声を掛けてしまった。こちらを見上げたあの表情を見た瞬間、僕は今まで感じたことがないくらい、胸がいっぱいになった。
「よければ、
一足、オーダーしてもいいですか?」
そしてその人が今、この工房で、僕に靴をオーダーしてくれている。
「僕も同じことを考えていました。
よければ、僕に、あなたのための一足をつくらせてもらえませんか?まだ見習いだし、出来上がるまで時間が掛かってしまうかもしれませんが…
あなたのためにつくりたい、そう思えたんです」
彼女はびっくりしたような、嬉しそうな、ちょっぴり恥ずかしそうな表情で、
「ぜひ、よろしくお願いします」と微笑んだ。
それから、彼女の足の型をとり、デザインや革の希望を聞いて、1ヶ月後に完成した靴を取りに来てもらう約束をした。
「今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ、急に声を掛けてしまってすみませんでした」
「いえ…なんだか夢のような夜でした」
「それでは来月、6月6日の晩にまた」
現実だけど現実ではないような心地で、私は工房を後にした。
お気に入りの靴が壊れた日、私はもっともっと大きくて大切なものを見つけた気がする。
相変わらずおしりはじんじんしてるし、壊れた靴は不恰好だけど、夜空を見上げると、まぁるい月がさっきより優しく穏やかに、私を照らしてくれていた。
つづく
最後までご覧いただきありがとうございました。
次回、6月6日の満月の夜にまた。
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