LEONIEとマイレオニーの旅10
私の製作資金調達法
私は『レオニー』の企画を立てるまでに、『ユキエ』と『折り梅』、2本の作品の製作を実現させてきた。
ここでもう一度、どうして50歳にもなった映画製作の経験もない私が『ユキエ』では2億円、『折り梅』では1億5千万円もの大金を手にすることができたのかについて振り返ってみたい。
社会的に意義のある題材を、公的資金でつくる
その2作の資金調達で共通していたのは、どちらの作品も映画ビジネスに通じた人たちとはまったく縁のない方々の助力によって叶った、という点だった。
たとえばその2作品は「認知症の介護」という地味な(そして時代的に早過ぎる)テーマを扱っていために、映画製作のプロたちにはまったく興味の湧かない題材だったこと。また、私の想定した観客層が中高年の女性たちだったこと。そして当の私がそれまで映画製作の経験のない人間だったなどの理由から、作品完成後の興行で大入りになる筈がなく、かかった製作費用のリクープも望めないだろうという、映画界の常識にあったからに違いない。
ところが『ユキエ』のときは幸運なことに、題材が当時霞ヶ関で介護保険の設計にあたる人たちの目に留まった。間もなく施行される介護保険を広めるにあたって、この映画ほど国民の啓発に相応しい映画はないと思ってくれた政治家や官僚がいたから映画製作が実現したのである。
つまり、私がはじめてつくろうとした映画は、たまたま国を動かす人びとの目には社会的意義のある企画だった。そのために半ば公的資金によって製作資金が保障されたのである。
そして2作目の『折り梅』は、引き続き国の中央で仕事をする人たちの助力に加えて、映画の舞台となる地方の自治体が助成金を出してくれたことも大きい。これも公的資金に近い性質のものだったため、私には「興行で儲けなくてはならない」という義務は課せられていなかった。
数あるコンテンツ・ビジネスのなかで映画ほどハイリスク、ハイリターンな投資案件はないと言われるほど、映画製作は大きな博打である。自分が持っている資金を増やしたい人は誰も、私の映画に投資をして金儲けをしたいなどとは思わないだろう。でも現に2作目の『折り梅』は2年間で100万人の観客動員を果たして、予想以上の利益を上げることができたのだ。
観客を味方につけて、資金調達に参加してもらう
手前味噌な言い方をすれば、初作品『ユキエ』で実績を上げた私は、映画を観た全国の観客たちが寄せてくれる、一般市民の浄財を集められる監督だった。
まだクラウド・ファンディングがなかった時代に、大勢の市民たちが自分の財布から寄付をしてくださったという事実は、映画の完成後に観客の輪を広げるという意味でも、大きな役割を果たしてくれたと思っている。
つまり、私が、映画界ではまだまだ少ない女性監督だったこと、市井に生きる女性たちの後押しで夢を実現させる存在になったことが、期せずして新しい作品の資金調達の面でも大きな原動力になっていたののある。
実際、私が考えた企画はどれもプロの映画プロデューサーや映画会社の人に興味を持って貰うことがなかった。また、私はその人たちの否定的な言葉を聞くたびに、
「プロたちは皆、業界で身につけた既成概念に縛られている」と感じていた。
企画の相談に行く度、映画界の実績ある人たちからどれだけ否定されても、私には想定した観客の顔が見えるような気がしていた。否定ればされるほど、逆にそうした意見を覆すためにも映画を作らねばならないと、闘志が湧いてくるのだった。
たとえば『レオニー』のシナリオを読んでもらった大手広告代理店の映画部の人は私に対する断りの言葉として「こんな強過ぎる女性は客の共感を得られない」と言った。それは彼自身が「強い女性は好きではない」からに他ならない。「僕はこんなに強い女性には共感できない」と言われるならまだわかる。それを「観客は」と言われることには大いに抵抗があった。何故なら、日本映画のほとんどが男性によって作られている。だから映画の主人公たちは、その男たちにとって魅力的な女でなければならない。そして、主たる観客層を若い男女と定めて、ヒットは生まれるのでなく、映画をつくる男性たちによって仕組まれてきたのである。
だからこそ映画界の片隅で、女性や中高年の観客の目線で作品作りをする、私のような人間が必要なのだとも思っていた。
私は、それぞれの作品の企画を思いついて、資金が集まるまでにどの作品でも3年以上の歳月を費やしている。が、その間一度として孤独を感じたことがなかった。
それは、私の映画を観てくれた人びとが、常に「男性が作る映画とあなたの映画は違うわ。これは女性監督にしかできない映画だと思うの。だからまた作ってね」と沢山の人から言っていただいて、元気と勇気をもらったものだった。
そして彼女たちは、ただ映画の完成を待ってくれているだけでなく、自らができる範囲で動いて私の背中を押し続けてくれる人たちだった。『折り梅』のときの『折り梅応援団』や、『レオニー』のときの『マイレオニー』のように。
実際、『レオニー』の企画開発でアメリカと日本の間を何度も往復できたのは、『折り梅』の成功と、マイレオニーで日々寄せていただいたドネーションがあったからだ。
幸運は、出会いの連鎖でやってくる!
さて、もう一度『レオニー』製作の道のりに話を戻そう。
前回の<LEONIEとマイレオニーの旅09>で書いたニューヨークのキャスティングディレクターパット・マコークルの紹介で『ミシシッピー・バーニング』のプロデューサー、フレデリック・ゾロとヴィンス・バッジョと出会い、一緒に製作実現を目指すことになったのは、2007年4月のこと。
実は、その日から遡ること5ヶ月前の2006年12月頃、映画製作おける最大の難関である資金調達の面で動きがあった。
『松井久子監督の第三作を応援する会・マイレオニー』の賛同人のお一人である、元Body Shop Japanの社長・木全ミツさんが、マスコミで働く女性たちの集まり『薔薇棘勉強会』を主宰するNHK記者の山本恵子さんを紹介してくださったのだ。「私たちの勉強会で『レオニー』製作への思いを話してみませんか?」と勧めてくれた山本さんのお力で、20名ほどの女性ジャーナリストたちが青山のイタリアン・レストランに集まり開かれた講演会の席で、私は世界的な彫刻家イサム・ノグチの母親の人生を映画にしたくて、もう4年近く、日米を往復しながら実現の可能性を探っていること、映画製作にはいかに膨大な資金が必要かということ、そして男社会の映画界で女性監督が映画をつくる難しさなどについて、約2時間にわたってお話をしたのだった。
そのミニ講演会から3日ほど経ったある日のこと、当日参加してくれた女性の一人から思いがけないメールをいただいた。
送り主は、当時『楽天マガジン』の編集長をしていた牛山朋子さんで、講演が終わったとき出席者の皆さんと名刺交換をした中のお一人だったのだろうが、私は牛山さんのお顔さえ覚えていなかった。届いたメールの内容は、
「松井さんが作ろうとされている映画は、製作資金があったらできるんですよね?私、先日の松井さんの話を聞いて、もしかしたらあの方なら解ってくれるかもしれないという人の心当たりがあるんですよ。よろしかったら紹介させて貰えませんか?」というものだったと記憶している。
願ってもないお話だった。
2003年の春に企画を思い立ってもう3年半が過ぎているのに、製作資金の目処はまだまったく立っていなかった。それなのに、たった一度の講演を聞いてくれただけの見知らぬ女性がそこまで考えてくれるとは…!
出会いとは、いつもそんな形で、思いがけない時にやってくる。木全さんも、NHKの山本さんも、そして楽天マガジンの牛山さんも、ついこの間まではまったく面識さえなかった方たちである。それが何かのご縁で出会うことになり、私の夢を実現するために行動を起こしてくださっている。そのことはまさにマイレオニーの皆さんとの出会いも一緒で、私が「この方!」と狙いをつけてお願いに上がったわけではないのに、ごく自然な形で、「出会いが出会いを呼ぶ」という感じだった。
映画というものは、そんなにも人びとの心に夢を与えてくれるものなのだろうか…?
世界中でたった一人のひと
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映画監督松井久子が編集長となり、生き方、暮し、アート、映画、表現等について4人のプロが書くコラムと、映画づくり、ライティング、YOGA等の…
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