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映画をつくる 11 プリ・プロダクション④ ロケーション・ハンティング

各シーンの撮影場所を決めるロケーション・ハンティング

映画製作において、実際の撮影にかかる日数よりも撮影準備(プリ・プロダクション)の期間の方がはるかに長く、準備すべきことは多岐にわたって山ほどあった。
そのプリ・プロでのいちばんの花がロケーション・ハンティング。
吉目木さんの原作の舞台となったルイジアナ・州バトンルージュとその近隣の町の中の、あらかじめロケーション・マネージャーが候補に選んだスポットを、連日、早朝から日没まで精力的に見て歩く。簡単にOKをすることもあれば、もっと別の候補地を探して欲しいと望むこともしばしばあった。

シナリオの4分の3を占めるのがユキエとリチャードが暮らす小さな家で、その家がメインの撮影場所となる。そこで私たちは町の白人住宅地のなかでも低所得者層が暮らすエリアに「販売価格1000万円」と看板の立った小さな家を、不動産屋との交渉で3ヶ月間借りることにした。その家の中でプロダクション・デザイナーと私とが相談して内装プランが決まると、早速美術チームが壁を薄いオリーブ色に塗る作業が始まった。

シナリオの後半、日に日にアルツハイマーが進行していく母のユキエを心配して、帰省した息子や孫たちと遊びに行くさびれた遊園地も、最初にシナリオを読んだ時のイメージ通りのものがあった。
失業中のリチャードが、戦友のアンソニーに紹介されて働くことになったルイジアナ海戦記念博物館に見立てた戦時中の戦闘機展示場も、ミシシッピー河畔に簡単に見つけることができた。
それにしても新藤監督は、どうして東京の書斎にいるだけで、このような場面設定を思いつかれたのだろう。バトンルージュは、映画の舞台にするほど目ぼしい撮影スポットがない町だと思っていたのに、まるでこの町にやってきてシナリオ・ハンティングをして歩いて書かれたのかと錯覚するほど。改めて、シナリオの第一人者と呼ばれる脚本家の神がかり的な能力に舌を巻く思いだった。

シナリオのなかでも、私が撮影場所に一番こだわったのが、徘徊で行方不明になったユキエを、リチャードが見つけるシーンだった。

◎ 沼のほとり
                     湿地帯には霧が流れている。
                    リチャード、駆けてくる。
 リチャード「ユキエ!」
      バタバタと鳥が飛び立った。
      草むらの彼方に白いものが見えた。
                     リチャードは駆けながら叫ぶ。
 リチャード「ユキエ!」
                     しゃがんでいたユキエが立って、振り向く。
                     ネグリジェの下半身がべったりと濡れている。
    リチャード「ユキエ」
                     と、手を取る。
      ユキエ、微笑んで、
 ユキエ  「サンドイッチを作って、ピクニックに行きましょうよ」
                     リチャード、ユキエを抱き上げ、帰る。

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バトンルージュ郊外の沼地を何ヶ所も見て歩いたがなかなかイメージ通りのスポットが見つからず、最後に、モネの絵に描かれたような理想的な沼を見つけることができた。この夫婦の再会シーンの撮影は、朝靄のけむる早朝4時からとなって、私たちクルーは前夜から近くのモーテルに泊まり、深夜3時前から撮影の準備をすることになる。日照時間の始まりとともにカメラが回り、太陽が昇りきる前に撮り終えねばならない。その日は戦争だ。NGは出せないだろう。

日本の特養にあたる、アメリカのナーシング・ホーム

今はなんとか家で介護をしているが、この先妻の病が進行したら、どこか施設に預けなくてはならなくなるかもしれない。リチャードは、そんな不安のなかでユキエを連れてナーシング・ホームに見学に行く。シナリオではー、

◎ 老人ホームのサンルーム
                 老人たちが日向ぼっこをしている。
                 デッキチェアに寝ている者。ゆっくり太極拳をやっている者。
     何かにやにや笑って徘徊している者。
     ユキエとリチャード、施設長とともにくる。
     ある老婆は、テッシュペーパーを、ゆっくりゆっくり細かく裂いては箱
     に入れている。
                  ユキエ、リチャードの腕にすがりつく。
ユキエ  「帰ろう」
リチャード「うん、帰ろう」
ユキエ  「ここに来たくない」

じっさい、ロケハンで行った老人ホームで、私は、その施設に入居しているアルツハイマーや認知症の老人たちを目の当たりにして、この人たちの動きや表情をエキストラの俳優たちが演じられるものだろうか?と思った。
当時、認知症は日本でもまだほとんど未知の病気だったばかりか、自分で監督をするという話もあまりに急に決まったので、アルツハイマーという病気をしっかり研究する間もなかった。当事者の様子を目の当たりにするのも初めてのことだった。

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この人たちのありのままを、カメラにおさめたい。

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