なかほら牧場発、これからの食と農を考える⑥
我が国の酪農史 ⅱ
昭和20年代後半から我が国の酪農振興政策が次々と打ち出された。その初発が同27年の「飼料需給安定法」である。その法の「目的」第一条には次のように書かれている。「この法律は政府が輸入飼料の買入、保管、売渡を行うことにより飼料の需給及び価格の安定を図り、もって畜産の振興に寄与することを目的とする」とある。
初発の酪農関係の法律が輸入飼料を前提としていることが興味深い。我が国の酪農政策は米国からの輸入飼料を前提に成立してきたことを裏ずけるものである。この時点から日本の酪農は舎飼いの反自然的、歪な方向に邁進していくのである。
そもそも酪農は人間が食に供することのできない草を乳や肉に変換する産業であったはずなのに、我が国の酪農は初発から人間の食料である米国の余剰穀物をベースにしてきたのである。
この背景には第二次世界大戦や朝鮮戦争の兵食として米国が食糧増産をはかったわけであるが、それらが終戦となり経済が安定するとともに穀物に余剰が生じ始めた。その戦争で荒廃した欧州各国に食糧支援をし共産陣営に対抗し資本主義陣営の拡大を図った。これがトルーマンドクトリンによるマーシャルプランであった。この支援が功を奏し欧州各国も経済的安定を迎えた。すると再び米国は余剰穀物に悩み始め今度は、その矛先を日本に向けた。米国にとっては対共産陣営の前線である日本は重要な地理的、軍事的要素を包含していたことは明らかである。
GHQの指導の下に制定された日本国憲法9条2項には「戦力はこれを保持しない」と高らかに謳われているにも拘わらず、日本に売りつけた小麦代金を日本の軍事力強化資金として援助するというMSA(muturl security act)協定を結び日本を反共防波堤とするために軍事力の強化を図った。
瞬く間に日本ではパン食が普及していった。パンなどの小麦製品の消費が拡大すれば自ずと牛乳や肉の消費も増え配合飼料の主原料のトウモロコシの輸入量も増え続けた。そこで「飼料需給安定法」となるわけである。これが米国の余剰穀物の上に成り立った日本酪農の姿である。
そして立て続けに昭和28年に有畜農家創設特別措置法、同29年には酪農振興法、同36年には戦後農政の基幹となった農業基本法の制定を見たのである。
特にこの農業基本法は小農切り捨てて大規模農業の推進を高らかに謳ったものだった。その中でも酪農は選択的拡大作目として指定され国家的庇護のもと専業的大規模化が推進されたのである。
昭和40年(1965)酪農家一戸当たりの平均飼養頭数はわずか3,4頭だった。たかだか55年後の令和2年には約90頭まで急増した。その後今日まで規模拡大の潮流はやむことを知らず今ではメガファームと呼ばれる千頭にも及ぶ乳牛を飼育する酪農家も出現している。
中洞 正(ナカホラタダシ)
1952年岩手県宮古市生まれ。酪農家。
東京農業大学客員教授、帯広畜産大学非常勤講師、内閣府地域活性化伝道師。
東京農業大学農学部在学中に、草の神様と呼ばれた在野の研究者、猶原恭爾(なおはらきょうじ)博士が提唱する山地酪農に出会い、直接教えを受ける。卒業後、岩手県で24 時間 365 日、畜舎に牛を戻さない通年昼夜型放牧、自然交配、自然分娩など、山地に放牧を行うことで健康な牛を育成し、牛乳、乳製品の販売を開始。
牛乳プラントの設計・建築、商品開発、販売まで行う中洞式山地酪農を確立した。
著書に『おいしい牛乳は草の色(春陽堂書店)』、『ソリストの思考術 中洞正の生きる力(六耀社)』、『幸せな牛からおいしい牛乳(コモンズ社)』、『黒い牛乳(幻冬舎)』など。
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