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映画をつくる 08 プリ・プロダクション①

新藤監督のシナリオが上がり、私が監督をすることになって、いよいよアメリカに渡って、クランクイン前の制作準備(プリプロダクション)の日々が始まった。 映画づくりにおいてプリ・プロダクションは、撮影よりはるかに膨大な日数がかかるものだが、特に現場がアメリカとなれば、しなければならないことが山ほどあった。はじめての監督業に専念するために、親しいドラマ制作会社の荒木功さんに 現場プロデューサーをお願いし、'95年5月、撮影監督の阪本さんと荒木さんと3人でニューヨークにとんだ。

エンターティメント弁護士、マーシャ・ブルックスと契約

アメリカの映画製作は、まず最初に、エンターテイメント弁護士を雇うことから始まる。ラッキーなことにアメリカ側のプロデューサーに決まった吉井久美子が、ミュージカル制作の仕事を学ぶために法律事務所に働いていたキャリアのおかげで、彼女の元上司の弁護士マーシャ・ブルックスが、
「クミコのプロデューサー・デビューのお祝いよ」と、破格のフィーで作品のロイヤーを引き受けてくれることになった。
小柄なマーシャの気さくな笑顔は、さしずめアメリカの田辺聖子さん。
訴訟社会のアメリカで、この人に任せておけばどんな問題も解決してくれそうだ。「ヒサコ。ここでのビジネスのことは私とクミコに任せて、あなたは思い切り監督の仕事に専念してね」との言葉が心強い。

そのニューヨークで、クミコから友達のマイケル・テイラーを紹介された。

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「マイケルは映画制作の現場でずっと働いてきた人で、シナリオも書ける人なの。彼をアシスタント・プロデューサーに雇ってくれたら私も安心だし、新藤監督のシナリオの英訳もできる人よ」
思い返せば、初対面のときはいかにも無骨で口下手な男に見えたマイケル・テイラーが、異国ではじめての映画制作に挑戦した日々、どれだけ私とクミコを支え続けてくれたことか。窮地に追い込まれるたび、どんな罵倒を浴びせてもいつも我慢強く、ブレずに黙々と働く彼の姿を、今もときどき思い出しては「彼がいてくれたから映画を完成まで漕ぎつけることができたのだ」と感謝せずにいられない。

ニューオリンズ空港で、フィルおじさんと再会する

ニューヨークから、ロケハンと現地のスタッフ集めのために映画の舞台となるバトンルージュに向かった5月21日。私は50歳の誕生日を迎えた。
50になってアメリカで映画監督をするなんて、つい1ヶ月前までは想像だにしなかったことだ。ほんとうに、人生は何が起きるかわからない。

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ニューオリンズ空港に降り立つと、出口を出たところにルイジアナ州フィルム・コミッションフィル・セイファート氏が待っていてくれた。
「資金集めを果たして、必ず帰ってくるからね」
「何年でも、待っているよ」
と約束し合って、同じニューオリンズ空港で別れてから、2年半が過ぎていた。

今では日本にも全国の各都市の自治体にロケ隊を招聘するフィルム・コミッションがあるが、まだアメリカにしかなかった時代だ。
町に撮影チームが来て、ロケをすることになれば、大勢の撮影スタッフが長期間にわたってホテルに滞在し、レストランで食事をし、そしてその街に住む現地の撮影スタッフたちを雇い、撮影機材を使うことになる。
その経済効果は莫大なものなので、どの州もロケ隊の招致に熱心なのだ。
私たちも、ルイジアナ州で使った金の約30%が返ってくる上に、ロケ地探しやスタッフ集めなどすべての世話をフィルのように映画制作の経験を積んだ人たちがしてくれるので、フィルム・コミッションは撮影に欠かせない存在だった。

1996年秋の『ユキエ』の撮影でお世話になって13年後、2009年に再び『レオニー』の撮影でアメリカに行くことになったとき、私は、もう一度フィルと仕事がしたくて、ニューヨーク・シーンのロケ地にニューオリンズを選んだほどである。

『レオニー』で再びフィルのお世話になってから、また10年近い時が流れたある日のこと。『ユキエ』でロケーション・マネージャーだったデイビッド・マッカーティーからFacebookの友達申請が届いた。懐かしかった。
デイビットとは『レオニー』のときは一緒に仕事をしなかったが、一度、フィルの娘さんと一緒に現場を訪ねてくれて、二人が結婚したと報告してくれたことを思い出す。そのデイビッドが、Facebookのメッセンジャーで、
「フィルが、ルイジアナを襲ったハリケーンの洪水で家を失った後、認知症になって、今では介護施設に入っている」と知らせてきたのである。
私は、すぐにでも会いに行きたいけど、今はとても行けそうにないこと。ジェシカと二人、フィルの介護を頑張って欲しいことなどを伝えた。

いつの頃からか、私はフィルを「ソウル・メイト」と呼んでいたほど、かけがえのない人だった。自分は英語をロクに話せないのに、なぜか言葉を介さなくても、いつも誰よりも互いをわかり合い、繋がり合っていると感じられる人だった。
どんなシーンを撮っているときも、肩にニコンのカメラを下げて、熱心にスチール写真を撮ってくれていたフィルが、アルツハイマーの患者たちが入院していた病院撮影の日は、なぜか姿を見せなかったことがある。
翌日、昨日はどうして来なかったのかと尋ねる私に、
「アルツハイマーという病気は、辛過ぎてね。見ることができないんだ」と言っていたフィルが、そのいちばん怖れていた病気になるなんて…!
今頃フィルは、どうしているだろう…?

名曲 「ユア・マイ・サンシャイン」の思い出

話を『ユキエ』のプリ・プロダクションに戻そう。
映画の舞台となるルイジアナ州の州都バトンルージュに着くと、私たちは連日
フィルの案内で町の中を精力的にロケハンして歩いた。
車で何処を走っていても、町の中央を流れるミシシッピー川にかかる鉄橋が印象的で、私がフィルに、
「あの鉄橋がこの町の象徴ね。必ず撮りたいので、あの橋をカメラに収めるベスト・スポットに連れて行って」とお願いすると、
「あの橋は”サンシャイン・ブリッジ”と言ってね。昔、州知事だったジミー・デイビスが若い時に作った『ユア・マイ・サンシャイン』を選挙のイメージソングに使ったので、彼が当選したときにあの曲が州歌になり、橋の名にもなったんだよ」
「ユア・マイ・サンシャイン!その歌なら教科書にも載っているほど、日本でも有名な曲よ!」

フィルとそんな会話をした私は、すぐに『ユア・マイ・サンシャイン』を映画の主題歌にするというアイデアが浮かんだのだ。
「ジミー・デイビスに会いたいなら、いつでも連れて行くよ」フィルに言われて、早速、会いに行くことになった。
私を迎えてくれたジミー・デイビスはその時97歳だったが、矍鑠とした紳士で、
映画の主題歌に『ユア・マイ・サンシャイン』を使わせて欲しいとの私のお願いに
「いいよ、使いなさい。日本は一度は行きたいと思っていた国だ。君の映画ができたら、僕も日本に行けるかもしれないね」と言って、あの世界的な名曲の使用を快諾してくれたのだった。

下の写真は、映画の撮影がすべて終わって、日本に帰る前日。
97歳のジミーが『ユア・マイ・サンシャイン』を映画のために歌ってくれることになり、自宅での録音が実現したときの一枚である。

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そのジミー・デイビスも『ユキエ』が公開された2年後、101歳でこの世を去った。
彼の「日本に行きたい」という夢はついに叶わなかったけれど、97歳の彼が渋い声で朗読と歌で綴った『ユア・マイ・サンシャイン』は、今も映画『ユキエ』のエンディング・シーンで聴くことができる。
人の命には限りがあるが、映画は永遠にこの世に残るのだ。

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