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つれづれ日記03
最近、Facebookでブックカバー・チャレンジというのが流行っていて
今日そこに書いたことに関連して、考えたことを少し。
岡本かの子にせよ、伊藤野枝や田村俊子、三浦環、管野須賀子、金子文子など
「革命」と「芸術」と「愛」に生きた明治大正の女性たち。
瀬戸内寂聴さんの評伝に描かれた女性たちは、もちろんその時代でも充分特殊な女たちだったにせよ、いまの時代を生きている私たちは、あの時代の女たちの
「生命力に溢れた力強さ」をわずか100年たらずの間にすっかり失ってしまったと感じるのは、私だけでしょうか?
市井に生きていた私の祖母の姿を思い出しても、今よりもはるかに個性的な人生を送っていたような気がするのです。
戦後、民主主義の社会になって、女たちが自由を獲得したように見えて少しも自由になった感じがしないのです。それは何故なのでしょうね?
確かに、生き方の多様さや職業選択の自由という点では、あの時代よりもはるかに広がったことは間違いありません。
でも、雷鳥やかの子や野枝のような女性たちが生まれたのは
「社会全体が因習と抑圧にみちた時代だったから」だけなのでしょうか?
もちろんそれを否定するものではないけれど、今の時代は、女性だけでなく男性にも「傑物」と言われる人がいなくなったような気がするのです。
それを「情報社会になったせいではなかろうか?」との仮説をたてて、
「自分固有の価値観を見失う」「他人と自分を比較する」「他人の目が気になる」など、男も女も、グローバルな現代社会を生きているうちに平均的で小粒になってしまったのではないか?という問いかけをして、今日はぜひ皆さんのお考えを伺ってみたいのです。
たとえば今回のような感染症の問題もけっして今に始まったことでなく、100年前のスペイン風邪などのように、歴史のなかで世界じゅうの人びとが何度も経験し克服してきたことだったはずなのです。
ところが今は、新聞もテレビもそのことを連日報道して、私たちは日々与えられる情報を追いかけているうちにその情報に振り回され、ウイルスに対して過度に臆病になってはいないか?と思ったりもするのです。
ウイルスの問題に限らず、たくさんの情報を享受しているうち、私たちは自分自身の判断力も、固有の人生も失ってしまっているのではないか?とが今日の私の問いかけです。
「みんな同じで、みんないい」
それってとても素敵な言葉だけれど、あなたの人生が「この世に生まれて、たった一度きりのもの」という見方からすれば、私たちはどれだけ「自分だけの人生」を生きているのでしょうね?
まだ、このマガジンを購読してくれた人はとても少ないのだけれど、ぜひこのことについてコラムの執筆をお願いしている皆さんも含め、自由に気軽にコメントを書いてください。よろしくお願いします。
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