ひとは自然の一部
11月のはじめ頃に、『アーティフィッシャル』というパタゴニア制作のドキュメンタリー映画を観た。
以下はパタゴニアのHPに書かれていたあらすじ的な文章。
"アーティフィッシャルは、人びと、川、そして野生魚の未来とそれを支える環境のための闘いについての映画です。本映画では、絶滅へと向かっていく野生のサーモン、魚の孵化場や養魚場がもたらす脅威、そして自然に対する私たちの継続的な信頼の喪失について追求します。"
引用 Patagonia : https://www.patagonia.jp/artifishal.html
サーモンを増やすために、孵化場を設けて人間の手を加える。
それは"魚のため"というよりは、"人間のため"という側面が強い。
食べるために、加工製品にして売るために、たくさんのサーモンを欲しているのは人間。
人間が生きるためには必要なことなのかもしれないけど、その裏側で必要以上の漁獲をしていたり、人間がダムを作ることで自然の生き物を追いやって生態系を変えていることを考えると、「それって本当に必要なことなの?」といったん立ち止まって考える必要があるように思う。
私が普段やっている牡蠣の仕事も、もしかしたらいったん立ち止まって考える必要があるのかもしれない。
そんなことを思いながら、このドキュメンタリーを観た。
(パタゴニアHP内のYouTubeのリンクから観ることができます。)
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この映画では、ダムやサーモンの孵化場ができたことで起こった出来事を映している。
要点をまとめるとこんな感じ。(ネタバレっぽいかも)
・川にいた自然魚は、孵化場から放流され続けている魚からの圧力を受けている。
・孵化場で生まれたサーモンは年々サイズが小さくなっている。
・孵化場で飼育することで遺伝子的に劣る魚を作ってしまい、その魚が自然の中で抱卵することで野生魚の遺伝子を劣化させることになる。
→ 野生魚を増やすどころか、逆に絶滅させる危険性もある
・生命は存続するために多様化するが、人間は簡素化を無理強いする。
・サーモンが減ることで、それをエサにしているシャチも減っていく。野生魚とともにシャチも絶滅する可能性がある。
・自分の行いを見つめることは、社会にとって困難な選択。
・自然は無限に生産も提供もできない。責任を持たないといけない。
・人間はなんでも可能だと信じていて、それに限界があることに気づいていない。
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食べることは人間にとって必要なことで、そのためにサーモンを選んで食べるということはわかる。
でも、人工的に卵を孵化させて放流することで自然魚の遺伝子に悪影響がでていたり、データ的にサーモンが減少しているというのは人間が原因でもある。
ひとは自然の中の一部で、管理できるものではない。
人間のエゴで気づいたら絶滅していなくなっていた、みたいなことがこれからすこしずつ起こりうる。
自然から適切な数量をいただいて自然の形を崩さないようにすることが、共存できる形なのかもしれない。
たとえば、この記事のようにIQ方式を導入して、漁獲量を決めて無理に獲らずに1匹の価値を高めるようにできる漁が増えるとか。
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あれこれ考えると、私の仕事はどうなんだろうって思いはじめた。
牡蠣は海を浄化する作用を持っているけど、人間はどうなんだろうか。
自然側の視点と、人間側の視点。
どう考えていったらいいのだろう。
これは完全に私のエゴ的な部分だけど、牡蠣をただの"商業目的"のためだけに扱いたくはない。しかし、食べてもらいたい気持ちは強い。
牡蠣の生産はどういう形がいいのか。海にとってはどうなのか、食べる人にとってどうなのか、みたいなところを普段接している人たちと話していけたらいいのかもしれない。
淡々と考えて、年始からこういう話をすこしずつインプットしていきたい。