赫く熟れた罪
赫く熟れた罪
二日ほど前、東京都内某ビル敷地内にて男性の腐乱死体が発見された。
身元は未だ不明。
自殺・他殺両方面から調べているとの事。
そして……。
目が、さめた。
私は夢を見てゐた、酷く哀しゐ夢だつたと思ふ。
だが、その内容は曖昧として形を成してゐなゐ。
もやもやとした霧のやふなつかみ所のなゐ悲壮感。
仕方がなゐから、私はまた眠る事にした。
布団にもぐりこみ、惰眠をむさぼる。
そうしてゐるうちに、私はまた夢の中へ引きずり込まれてゐつた。
夢の中では、私は泣ゐてゐた。
止めやふと命令する脳に反して、だらだらと滝のやふに涙を流す両の目は、酷く痛ゐ。
いや、泣ゐてゐるのではなかつた、雨だ。雨が轟轟と振つてゐる所為で、私は目が痛ゐのだ。
雨の音にかき消されて、私が今、何を呟ゐてゐるのかすらわからなゐでゐる。
「嗚呼、僕はまた目を覚まさなゐとゐけなひのか……」
*
私はあの人を超えなければならない。
否、私には超える事の出来ない壁を見せ付けられているのだ。
どうしようもない歴然とした差を見せ付けられてもなお、私はあの人に憧憬を抱いている。
あの人の持つ世界は、私にとっては宝以外の何者でもないのだ。
私は、あの人の全てになりたかったんだ。
壁を超える、超えない以前に、ただの少しでもあの人に近づきたかったんだ。
だから私は、こうして何時もあの人を見つめていた。
気づかれてはいなかったが、確かに、私は一心に見つめていた。
何時も
何時までも
それだけで、私は幸せだった……だが、その幸せにも慣れた。
そうだ、私はあの人になりたかったんだ。
だから私はこうして、此処に来ているのだ……。
私は、“悪魔”から“私”になるのだ。
*
目が覚めた。
私は夢を見てゐた、酷く嬉しゐ夢だつたと思ふ。
だが、その内容は全く記憶に残つておらず、余韻が胸の内に留まつてゐるだけであつた。
この、薄気味悪さを覚える程の、高揚は一体なんだらふ。
仕方がなゐから、私はまた眠る事にした。
布団にもぐりこみ、惰眠をむさぼる。
そうしてゐるうちに、私はまた夢の中へ引きずり込まれていつた。
夢の中で、私は嗤つてゐた。
酷く嬉しさふに嗤つてゐたので、私は少し驚ゐてしまつた。
気が付くと私は川の辺に立つてゐて、そこから地上を見下ろしてゐた。
川の辺から見る地上は汚ゐ埃に塗れてゐて、それが目に入つてしまつたので、私は目が痛くなつてしまつた。
「嗚呼、此処は天の川ぢやあなゐか」
*
だからね、これは自己過失じゃないの。だって、普通手すりに腰掛けて転落・・・…え? 普通は手すりに腰掛けない?
まぁまぁ気にしない気にしない。
そうそうそれでね、普通の場合だったら、いくら本人の体重が手すりにかかったとしても、こんなに強い皮下出血はみられないの。
たとえ間違って手すりからずり落ちちゃったとしても、建物の壁すれすれに落ちていくから、こう、しりもちみたいな感じで地面に激突するから骨盤骨折とか見られたり、脊椎の圧迫骨折とかがあるの。
それにね、ほら写真みて、頭が建物とは反対側にあるでしょ。
これは普通に落ちた時とは逆向きなのね。
おかしいでしょ。
だから、これみたいに、頭が建物より離れた所にあったから……ああ、これからは僕の推測だけどね。
まず、この男は手すりを乗り越え、左足をバルコニーみたいなところにおいて、右側を建物の外側に置いていたの。
そして、左手で手すりを掴んだまま、左足を強く蹴ってバルコニーから離れた、と。
え?それじゃあ自殺だって? そうそう。僕の意見だと自殺。飛び降り自殺なの。
だってね、そうじゃなきゃ、この死体の状況は説明できないの。
まずね、背中を外に向けた格好で飛び出すとするでしょ?
そうすれば、右臀部が先頭になって腰を中心に前方いに屈折位のまま落ちてくのよ。
そして、そのまま地面に叩きつけられると……。
右臀部が一番最初に地面に着地する。
その時に右大腿部背面を打撲して、皮下出血を生んで、右骨盤骨折をおこす。
次に背骨がイカれちゃう。脊椎骨折ってワケ。そして、右半身から地面に強く落ちて……。
え?
もういいって? どうして。ちゃんと知りたいんでしょ。
そんな、怖い顔しちゃ駄目だよ。なんなら、ちょっと血の気を抜いてあげようか? あはは、嘘だって。
まぁまぁ、兎に角、死体の状況から見ると、自殺って見方が一番有力だよね。
とりあえず……死因は墜落による心臓破裂。
腐乱状況から見て……この前の大雨の日。あの日だと思う。時間は、ちょっと正確には難しいけど、夜……深夜ぐらいかな。
年齢は、20代後半……ぐらいかな、ちょっと誤差があるかも。まぁ、結構若いよね。
奥歯に治療跡があったから、身元がわかる手立てになるかもしれない。
顔がわかれば、もっと早くわかるんだけどね、この腐乱の仕様じゃあ……ちょっと復元は難しいし。
いやぁ、僕も今まで色んな腐乱死体を見てきたけれど、ここまでぐちゃぐちゃってのも凄いよね、ガスで顔が変形しちゃってる。
まぁ、頭蓋骨がこれだけ蛸みたいにへにょへにょになっていればね、仕方ないんだけどさ。
あと……遺体の近くにこの本。もしかしたら、持ちながら飛び降りたのかもしれないね。
何回も読み返しててボロボロなのに加えて……血でちょっと見難いけど……。
――――――……め、眩暈って書いてあるね、うん。
*
夢を見てゐた。
酷く苦しゐ夢だつた。
私は、大きな建物の中に居て、階段を只管上つてゐた。湿つた空気が、肌に纏わりついて。
耳元では轟轟とした雨の音が、鳴り響ゐてをり、それはさながら不協和音にも聞こえた。
悪魔が、私を誘つてゐた。
酷く痩せた悪魔だつた。邪悪な感じよりも、滑稽な道化師のやうだつた。
「さあさあ、貴方の仕 事は唯ひとつ」
厭な声だ。
酷く皺がれてをり、聞き取りにくゐ。
悪魔は、耳まで裂けてゐる大きな赫ゐ口で、残酷な童話を聞かせやふとする。
「私の存在を永 遠の物にしてお呉れ」
悪魔の手が、私の腕を掴んだ。
酷く冷たゐ手だつた。嗚呼矢張り悪魔は血が通つて居ないのだらふか。
私は、終に悪魔と契約を結んでしまつた。
悪魔は嬉しさふにげらげらと嗤ふと、窓から飛び立つてしまつた。
「嗚呼、天の川を見に行かなくては」
私は、何故だかそれしか考えられなかつた。
*
「はぁ、不思議な話ですね」
鳥口は、手にもっていた原稿を机の上に置いた。
どさり、それは重圧な音を出して、机の上の埃を畳の上にまで飛ばした。
その原稿はまだ未完であり、続きを書くはずの人間は、何処かへ姿を消しているのであった。
「不思議な物か。それは現実に起こった話だよ。全く不思議なんかじゃあない」
「……現実に? それが関口さんの失踪と関係あるんですか?」
「まだわからないのかい? ほら、一昨日発見された男性の腐乱死体発見の記事を覚えているだろう? それが事件だ」
京極堂が、眉間の皺をより深くしながら怒ったように言い放った。
此処は関口の家であり、彼の執筆を行っている部屋であった。
京極堂の横には榎木津、木場がおり、向かい合うような形で、鳥口、益田、青木が控えている。
そして、彼らの間に置いてある机の上には、先ほどまで鳥口が読んでいた未完の原稿……。
しばしの間、沈黙が流れた。重重しいソレは、無言の重圧となって部屋の居心地を悪くさせた。
鳥口は、申し訳なさそうに喋り出した。
「……あのぅ、なんでその死体男と小説が関係してるんですか?」
「この小説に登場する悪魔は、どうやら関口君の書いた本の熱狂的な信者だったみたいだね」
「うへぇ。熱狂的」
「そうだ。関口君の書いている作品は、たいした物じゃあないが、彼にとっては違うんだろうね」
京極堂はそれだけ言うと、口を閉じてしまった。
榎木津はごろりと横になって眠っているままで、微動だにしない。
木場は、普段から厳つい顔をさらに厳しくして、押し黙ったままである。
言い知れない不安に支配された鳥口は、ふと横に居る青木を見た。
彼は、冬の海で寒中水泳してきたばかりですと言わんばかりの青ざめた顔をしていた。
青木の奥に居る益田に至っては、下を向いている所為もあり、前髪で表情が良く見えない。
誰も喋ろうとしない。
この無言の言葉は、一体なにを暗示しているのであろうか。
もしかして、鳥口だけが、関口失踪の結末を知らないのかもしれない、そんな思いに駆られた。
一人だけ置いていかれた焦燥感、それが鳥口を襲った。
何かを問いかけようとした時、京極堂が、血まみれの紙切れを差し出した。
「旦那から貰ったんだ……此処に、事件の真相が書いてある」
数枚の紙切れは、血を吸っている所為か、酷く重い気がした。
関口の字とは、違う綺麗な字で書いてあった。
*
悪魔と契約をしてしまつた私は、様様な人に叱られてしまつた。
それは、酷く私の心を痛める原因となつた。
今の私には、謝る術すら分からなゐでゐる。
黒ゐ人が言ふ。
白ゐ人が言ふ。
赫ゐ人が言ふ。
青ゐ人が言ふ。
緑の人が言ふ。
黄色ゐ人が言ふ。
灰色の人が言ふ。
色色な人が私を怒つてゐる。
口口に私に冷たゐ怒つてゐるだらふ言葉を投げかけてくる。
御免なさゐ
私が悪魔と契約をしてしまつたばつかりに。
私はとてもとても弱ゐから、小さゐから、愚かだから、馬鹿だから、愚図だから、胡乱だから。
だふしやふもなゐ程馬鹿な愚かな猿のやふな人間以下のだふしやふもなゐ下らなゐ下等な下劣な生き物なんです生きてゐるだけで精一杯で赫ゐ口の道化師のやふな悪魔の誘惑にも負けてしまふ脆弱な生き物なんです。
嗚呼、悪魔が私を誘つてゐる。
天の川を見に行かふぢやあなゐか。
さふだ。
私は天の川を見に行かねばならなゐのだつた。
私は――――――――――――。
*
乾いた血で、文字が見難かった。
それでも、それでも、鳥口は読んだ。
でも、読みにくかった。……その理由は、すぐわかった。
手が、ありえないぐらい小刻みに震えていた。
「……ぉ、こ、これって……」
「死体の傍にあった眩暈の中に挟まっていた紙切れだよ」
「紙切れ……って言っても……こりゃあ―――」
「嗤えるだろう? これを書いたのは、悪魔本人だ。それでいて、関口君の書いた話の“続きを成している”」
「続きって……ありえないじゃあないですか! 普通、本人より先に小説が書けたら締め切りなんていりませんよ!」
「……悪魔の妄執が、関口君の妄想と一致してしまったんだろうね。……実に、惨い結末さ」
「そんな、そんな事って……」
「不思議な事は何処にもないよ。……悪魔本人の書いた小説は、関口君の胡乱な精神を、物の見事に砕いたんだ」
この紙が、関口本人の家に届けられた。
それまでに、おそらく悪魔は、何度も関口と接触を図っているのだろう。
関口が悪魔を知っていて、ソレを小説に書いたのがいい例だ。
しかし、今まで自分が書いていた小説の“続き”を、悪魔から渡されたら。
自分の頭の中でしか存在していなかった小説の“続き”が、悪魔の手によってこの世に存在していたなら。
関口がこれを読んだら。
「……ま、まさか……」
“私”と同調してしまった関口が、作中にある“私”の行動をそのまましてしまっていたのならば。
この“悪魔”によって書かれた小説の最後は……。
*
私は、天の川から落ちてしまつた。
泥塗れの地面に叩きつけられる。
私の背中を叩きつける冷たゐ雨が酷く火照つた身体に心地良ゐ。
嗚呼、視界が赫ゐ。
何故だらふ。
私は無償に泣きたくなつてしまつた。
この顔を流れる液体は、雨なのか、涙なのか、血なのか、果ては違ふ液体なのか
私は目を閉じてゐるのでわからなかつた。
嗚呼、夢を見る。
哀しゐ夢だつたと思ふ。
嬉しゐ夢だつたと思ふ。
私は、天の川のさらにうゑに行きたゐと思つた。
*
「――――これは、本部が事件性を感じで報道規制をかけている事なのですが」
青木が重重しい口を開いた。
手帳を持つてが震えていて、爪の先が白い。
木場も表情が暗い。
この事件の結末をいち早く知っていたのは、警察機関に属している彼らなのだからか。
鳥口は、混乱する一方で、これからの事実を冷静に受け止めようと努力している自分に出会っていた。
青木が、事務的な口調で答え始める。
まるで、前もって一言一句手帳に書き写していたかのようだ。
「その男の死体があがった場所・・・そこから建物をはさんでの逆側に……後日、もう一体、死体が発見されました」
「もう一体……」
「……て、丁寧に埋葬されていた所為で、発見は遅れました。が、死体の状態は、先の男よりは良好……でした。だから、み、身元は分かってます……」
榎木津が、むくりと起き上がって青木の顔を見る。
青木は、榎木津の行動に驚いたようで、静止したまま動けないで居る。
榎木津は、ふんと鼻で嗤うと、強い口調で言い放った。
「……その、ぐちゃぐちゃになったのが、関なんだな」
鳥口は、気がつくと泣いていた。
*
嗚呼、関口さんが落ちた。
私の書いた小説そのままの行動をして呉れた。
これで、これで私の小説が、彼の小説になった。
関口さんは言っていた。
今まで書いた小説は、私小説だ、と。自分の過去の事を書いている、と。
関口さんは私の小説そのままに落ちた。
これで私の小説は、関口さんの過去となった。
やった。
これで、これで私は彼になれた。
END