風景というキーワード
「風景」という言葉に、惹かれるぼくです。
話は学生時代にさかのぼりますが、近代日本美術を一応専攻していて、するとどうしても日本の伝統と西欧という大きな問題に直面する羽目になって、その時、解明する手がかりを与えてくれそうに思われたのが「風景」だったんですね。つまり、人が風景をどうとらえ、どう表現してきたかを調べれば、文化のアイデンティティのようなものが見えて来るんじゃないかって。
以来「風景」という語彙はぼくのキーワードになってしまって、いろいろ本を買ったし、読みましたね。ほとんど忘れてしまったけれど。とはいえ、今でもぼくの頭の片隅には残っていて、町の本屋さんでずらり並んだ背表紙に懐かしのキーワードを見つけると、つい手に取ってしまいます。
オギュスタン・ベルクの『日本の風景・西欧の景観』(講談社現代新書)も、そんなふうにして見つけた本の一冊。ずいぶん前に求めながら今日まで読まずに来たのは、中味が恐ろしく濃いせいです。薄い本だから簡単に書いてあるんじゃなくて、圧縮されている。フツーのおじさんの生活が長くなると、腰を据えて精読しなきゃいけない本はつい敬遠しちゃうんですよ。
さて、この小さな本が優れているのは、西欧vs日本の単純な二項対立の図式に陥っていないことでしょう。自民族中心主義ともほど遠く、また、必要条件と十分条件との区別も的確です。
そもそも風景が風景になったのには文化的な背景があるのです。人々がさして意識もせず、表現もされなかった風景(=元風景)が、日本の場合でいえば平安時代以降、中国渡来の語彙(「風景」「景色」「山水」)および美的図式をエリートたちが学ぶことで風景になったと言うのですね。で、大多数の農民たちはといえば、柳田国男によると彼らの語彙には風景の観念を表す言葉がきわめて貧弱で、「眺め」「見晴らし」だけだったとか。
エリートたちが風景を作ったのは西欧も同じことのようで、ベルクは〈エクス地方の農民が本当にサント=ヴィクトワール山を見たことがあるかどうか疑わしい〉という、画家のセザンヌの言葉を引いています。
逆に言えば、エリートたちに知覚される以前の元風景のレベルになら、この二つの文化、いや、ありとあらゆる文化、あらゆる時代に共通な基本的な特徴が見つけられるはずですよね。差異をことさら強調するまえに、共通基盤を冷静に認識しておくことは大事です。
さらに著者は、単に過去と現在を分析するにとどまらず、来るべき風景(著者が「造景」と名付ける)の時代を予見します。このあたりが著者の真骨頂なのだけれど、結論(仮説ですが)だけを引用したのではわかりにくいと思うので、興味のある方には読んでいただくこととして……。
突然ですが、日本人の観光旅行って、相変わらず何も見て無いんと違う? 行っただけで満足して、証拠の写真を撮り、証拠の品(お土産)を買い。中国の影響も西欧の影響も受けていない原日本人(?)が、意外に多かったりして。(99.1.23)