愛読書の効用──『赤毛のアン』
愛読書の効用ってなんでしょう? まあ、ぼくの場合は一服の清涼剤、あるいは水やり。よどんだ頭、疲弊して萎えてしまった心のヒダヒダが、一読たちまちシャッキリと背伸びします。
人の心が一番澄んでいるのは、やはり少年・少女の頃ではないでしょうか。少年の眼差しを失って数十年、ぼくは一点の濁りもないクリアな頭、というか心を、二度と持てずにいるような気がします。ぼくは醜悪なものを見過ぎたし、不埒なことをしすぎたし、不味いものを食べすぎたし飲み過ぎた。つまりは、子供がマネをしたら「不良」と決めつけられるようなことをたくさんやってきた……タバコだけは触っていないけれど。
大人は子供をよく叱るけれど、本当は大人の方がよっぽど悪いことをたくさんしている。そしてひょっとしたら、大人たちはそういう醜い自分をどこかで意識しているから、子供たちを聖人君子の面もちで叱りながら、実はそれが新たなストレスになっているのかも。え? 怒ってストレスを発散させてるだけの大人もいるって? うーん、確かに。
ともあれ、未来は希望、そして過去は羨望。ぼくたち大人にとって、失われた清冽な少年時代は羨望するしかないのだけれど、あまり遠い話になってしまうと、羨望すら出来なくなっちゃいますよね。そう。ぼくが時折『赤毛のアン』を読み返すのは、少年時代を永久に失ってしまいたくないからです。
つまりは追体験なのだけれど、我が子と違って本の中のアン・シャーリーは、その成り行きが知れているだけに安心してその世界に浸ることができるのです。
それに、アンの住む世界は、読み返すたびにぼくに新たな感動を与えてくれます。
今度読み返してみてあらためて感心したのは、モンゴメリの巧みな自然描写です。それも、単にプリンスエドワード島の自然を美しく描くだけではなくて、アンの心情、アンの成長とうまく歩調を合わせ、それを浮き立たせるように描かれています。
たとえば、アンがブライト・リバーの駅からマシュウの馬車に乗って、希望に胸を膨らませながらグリン・ゲイブルスへの道を辿ったのは六月。まるでアンを祝福するかのように、〈香りたかく、雪のような花が天蓋のようにつづく〉歓喜の白路。そして、〈クロッカスやばらや、透きとおるような草の緑がこの世のものとも思われぬ影をおとしている〉輝く湖水。赤い道はまるでバージンロードのようだし、アンを巡る世界が次々と立ち現れてきて、いっきにアンの世界に引き吊り込まれてしまいます。
そして『赤毛のアン』は、ぼくたちにそっと、人生の小さな秘密をも教えてくれます。たとえば、マシュウの死によって、せっかく手にしたエイヴリー奨学金の権利を辞退することを決心したアンは、マリラに、そして自分自身にこう言い聞かせるのです。
道にはつねに曲がり角がある……でもそれは、「真剣な仕事と、りっぱな抱負と、厚い友情」を自分のものとするアンにとって(もちろんぼくたちにとっても)、決して挫折などではなくて、あらたな希望なのです。
蛇足ですが、この一節には、実生活が必ずしも幸福ではなかったと伝えられる作者モンゴメリの、ひそやかな祈りのようなものが込められているようにも思えます。(1998.07.17)