ケルト、そして北原先生のこと

 ケルト美術展が開催されています。ブームとはいかないまでも、日本でもケルトはかなり一般的になって来ているようで、ケルト人やケルト文化をテーマにした本をよく書店で見かけるようになりました。
ぼくがケルト美術を知るようになったのは、昭和四十九年に和光大学に入学し、故北原一也先生の研究室で、ケルト美術に関する書物の原書講読に加わってからです。北原先生は当時、西洋の、あまり一般的ではない中世以前の美術を研究しておられました。
 先生は本来、ボードレールなど、フランス象徴詩の研究者だったと聞いたことがあります。しかし、フランス各地を旅する中でゲルマンやケルトの芸術にふれ、西洋の中の異文化にのめり込んでいかれたようです。
 先生の教室での講議というのは一種独特で、スライドを使って紀元前後の造形作品と現代美術の作品とを交互に見せ、「どっちが古いと思う?」と生徒たちに質問するんです。すると、多くの学生は二十世紀の現代美術と紀元前の作品との区別がつかない。これはショックでした。創造の本質、進歩の意味、何がなんだかわからなくなって、全て一から考え直さないといけないような気になってしまう。
 たぶん先生は、それまで知識としてクールに理解していた西洋文明に対して、実際にフランスに身をおいて生活する中で、近代西洋文明の取り澄ました仮面の下に見えかくれする野性的なエネルギーの存在に気付き、それをこそ探り出したいという欲求にかられたんじゃないでしょうか。西洋文明の基を造ったのは、けっしてキリスト教とギリシャ文明だけではないって。……そして先生は、フランスやスペイン、イタリアを経巡る中でゲルマン・ケルトの、あまり知られていない異教の芸術と出会い、研究を深めていかれたのではないかと思うのです。
 その研究の足跡は、先生がお元気だった頃、いくつかの美術関係の雑誌に発表された文章で辿る事ができます。すでに絶版になっていますが、本も出版されています。
 でも、結局先生の研究は早すぎたのでしょう。当時はケルト文化なんて問題にされてなかったですもん。フランスの文化史の翻訳本を読んでも、ケルト人という、いわば先住民の文化についてはまともに取り上げていませんでした。先生の研究が注目を浴びる条件はなかったのです。
 今、ケルト美術展開催のニュースを聞きながら、当時の北原研究室での先生と学生たちとのやり取りを、懐かしく思い返しています。(1998.4.22)

《北原一也先生の略年譜》北原一也(本名、岡田又四郎)。大正十年、東京生まれ。昭和二十七年東京大学仏文科卒。昭和三十五年渡仏。昭和四十年に帰国。和光大学教授。昭和五十一年より、大阪府柏原市の線刻壁画古墳群「高井田横穴群」の評価と保存に取り組む。昭和五十三年十一月二十一日、肺ガンのため死去。
《北原一也先生の主な著作》「古代芸術へのいざない1〜3」(『レアリテ』一九七五年)、「ヨーロッパ・プリミティーフの造形1〜6」(掲載誌不明)、「プリミティーブ芸術の世界」(掲載誌不明)、「フランスの美術1〜3」(掲載誌不明)、「拒絶の美しさ」(『造形芸術』一九六八年六月一日)、「ロマネスクの旅1〜6」(掲載誌不明)、「ロマネスク絵画」(『連盟ニュース』一九六九年八、九月号)、「原罪の顔」(『具象』)、「あるフランス人」(掲載誌不明)、「エコール・ド・パリ=生きている神話」(『みずゑ』一九六八年)、「フォーブは革命か」(掲載誌不明)、「フォーブの起源とその限界」(掲載誌不明)、「パリ」(掲載誌不明)、「抽象と非合理の世界」(『東京タイムズ』昭和四十四年五月二十一日)、『ヨーロッパのプリミティーブ芸術』(岩崎美術社)。

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