『恋の姿勢で』

東京へ帰って、民は津山らしい男を何度も見た。市ヶ谷だったり渋谷だったり自由が丘だったりしたが、津山ではなかった。

山田太一『恋の姿勢で』(新潮文庫)、新潮社

 あるある、こんなこと。逢うはずもない人に、逢うはずもない所で逢ったりする。いや、「逢う」んじゃなくて、見かけるってことが。
 そんなとき、あなたならどうします? 喜んで声をかける……かな? 少なくともぼくはそうじゃなかった。思わず顔を背けたり、急ぎ足で通り過ぎたり。それでいて後から気になって振り返ってみると、もうそこにはくだんの人はいない。そして時がたって思い返してみても、はたしてそれが本当にあったことなのか、あるいは夢の中でのことだったのか、判然としない。
 でも、ぼくはどうして彼の人に逢ってしまうのだろう?

それは津山がどこにでもいる平凡なタイプだともいえるけれど、似た男を見てどきりとし、違うとわかって軽く失望することが何度か重なると、津山にしかないものを、自分が懐かしんでいるのが分かった。

前掲書

 心の奥深くで、彼あるいは彼女にしかないものを求め、懐かしむ……そういう思いというか心のヒダが、街の片隅に彼あるいは彼女の面影を出没させるんですね。もっともぼくは近頃、このテの経験をトンとしなくなってしまいました。すべてを手にして満ち足りてるというわけじゃなし、要するに夢もチボーも持てなくなってしまったのかなあ。サビシイ。
 『恋の姿勢で』の結末に、作者は明快でハッピーな結論をおきません。それは、心の傷というものがそう簡単に癒せるものではないからでしょう。津山は虚構の世界に心を逃がし、そこで民と恋に墜ちた。そして恋は虚構の世界を掻き回し、リアルな人生に彼らを向かわせることになるのです。恋は現実ですからね。
 そこからなにが生まれるのか。恋は彼らを救うのか。彼らはどう生まれ変われるのか。『恋の姿勢で』の続きは、どうやら読者がそれぞれの内に書き付けることになりそうです。
 ところで、山田太一さんの小説を読みながら映像を思い浮かべてしまうのはぼくだけではないでしょう。実際にドラマ化された作品はもちろん、そうではない新しい小説でも、読みながらぼくの中で自然にイメージが固まってきて、俳優たちが心の劇場で立ち回り、セリフを喋り出します。
 山田さんの小説はディテールがはっきりしているし、会話が洒落てる。それにト書きの代わりというわけではないだろうけど、登場人物たちの気分・心の動きまでが書き出されているので、ぼくは容易に俳優たちに演技指導が出来るのです。山田さんの小説を読む楽しさ、ですね。(98.11.03)

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