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喫茶店は、なんのための場所か?――行列する喫茶店に思うこと
喫茶店は「時間をつぶす場所」ではないか
先ほど上野を書いていたら、とある喫茶店の前に行列ができていた。「純喫茶」として取り上げられることも多い有名店だ。
通りがかった時間が10時ごろだったので開店待ちかと思ったが、店内にはすでに客。つまり行列の人らは「開店待ち」ではなく「入店待ち」だったということ。たかだか行列は5人そこいらだったが、喫茶店に入るために行列する神経というのが、筆者は分からない。
それは、筆者の中で「喫茶店は無為に時間をつぶすところ」という認識があるからだ。「本を読む」「くっちゃべる」「瞑想する」「虚空を見つめてよだれを垂らす」「ひたすら貧乏ゆすりをする」「革命の準備をする」――そんなことをして日がな時間をつぶすというのが、喫茶店、純喫茶ではないか。
行列は魂のオアシスである喫茶店に競争の論理を持ち込むものだ
これがどうか。入るまでに何分も行列しては、せっかく入店しても「20分待った」という現実が重くのしかかってくつろげないのではなかろうか。しかも、人間はあさましく、かつ今は空前の「半沢直樹」ブーム。行列で待たされた20分を倍返し、いや10倍返しで200分は居座ろうとしてしまうものだ。とはいえ外にはまだ行列、何万もの無辜の人を待たせてまで、自らの欲を満たして良いのか。こう煩悶するうち5分、10分と光陰矢の如しである。そうまでして居座って楽しいのかと問いたい。しかもそんなことをしてきっかり200分経過、そこで、「ハイそうでしたか」と退店しては、なんのために喫茶店に来たのかわからない。一方の店も、どいつもこいつもこんなに長居さしたあかつきには経営が火の車、たまったもんじゃない。
となるともう双方根比べだ。意地でも店から出まいとする客、回転率を上げて利益を確保したい出歯亀経営者、永遠に入店できない行列する餓鬼、という三つ巴の戦いが始まる。心の安寧、魂の寂静を求めて行くはずの喫茶店は、かくして殺伐たる競争社会と化してしまうのである。
しかし、経営者たちも阿呆ではない。
カフェチェーンの起原は行列にあった!!
客が出てかないなら、単価を上げればいいじゃない。かくてスターバックスは誕生した。
客が出てかないなら、出て行きたくさせればいいじゃない、と北風と太陽をガン無視で尻が鬱血するかのような硬い椅子、狭い荷棚、耳をつんざくような英語をまくしたてる轟音のBGM、かくてドトールやベローチェが誕生した。
一方で客も阿呆ではない。こうした店に対しては「カフェ」と言う区別を与え純喫茶と峻別し、いまだ良心的であり続ける数少ない純喫茶にあしげく通い阿呆陀羅経を唱え続けた。その結果、少なくなった純喫茶へさらに多くの人が押し寄せるようになり、これまで以上に行列が常態・深刻化。店内客・経営者・行列者という三竦みのうち阿呆であり続ける行列者たちだけが割を食っている――ここまでが今日の純喫茶と行列をめぐる諸事情である。
と、行列を尻目に入った別の喫茶店でこんなことを考えていた。じゃあ、解決のためにはどうすればいいのだろうか。そんなことは知らない。なぜなら筆者は行列せずに入れたから。でも並んでもないのに行列のせいで無為ではない時間を過ごしてしまった。全く行列というのは腹が立つ。並ぶ彼らの汗と涙を偲び、いつもよりちょっと長居した。
(冒頭の画像は、Twitterのニコニコドキュメンタリーという人がしたツイートから引用しました)