見出し画像

がんと『優しいウソ』

なぜかわかりませんが、最近よく『優しいウソ』というキーワードを耳にし、
その度に、「がん治療の場面でもよくあるよね」って思うので
ちょっとそんな話題をお話させてください。

そもそも『優しいウソ』とは、どんなウソなのでしょうか?
『優しいウソ』の反対は、『残酷な真実』
そのまま本当のことを伝えてしまうと、残酷な思いをさせてしまうため、敢えてウソをついて、その人を傷つけないようにするというものでしょうか?

がん治療の場面では
●ご家族が患者さんを気遣って・・・
・「がん」ということは本人には伝えないでほしい
・「転移」の部分だけ内緒にしてもらえませんか?
・「余命」に関しては、絶対に言わないでください
ご家族から、このような依頼をいただくことが度々あります。

●医療者が患者さんを気遣って・・・
・腫瘍マーカーが上がっても、必ずしも「がん」が悪くなっているわけではないから(心の中:そうはいっても、次回のCTでは大きくなっているかもしれないな)
・「再発」はしてしまったが、これからちゃんと治療していけば大丈夫だから(心の中:がんは治せないかもしれないけど、●年くらいは大丈夫)

また医療者はがん患者さん本人に「余命」を伝えるとき、実際に考えている期間より長めに伝える傾向があることが知られています。
これも、ある意味『優しいウソ』ということになるかと思います。

相手のことを思ってついた『優しいウソ』であっても、ウソはウソだから許せない。悪いことだ、という意見もたくさんあります。
その理由としては、
・相手のことを思ってといいつつ、結局は自分のために、自分にメリットがあるから、そのウソをついているんじゃないの?
・本人が傷つくと考えてといっているが、本当に本人が傷つくのか?傷ついたとしても、『残酷な真実』を伝えたほうが最終的には良い結果になるのではないか?
というものですね。

「がん」の告知をしてほしくないというご家族の場合
患者さん本人とずっと過ごしてきた家族ですから、そのようなショックなことがあれば大きく落ち込むだろうことは容易に想像がつきますから、「がん」なんてわかったら自殺でもしてしまうのではないか?と考えても無理はないかと思います。
自殺まではしないにしても、「がん」と言われて落ち込んで、家庭内でずっと塞ぎ込んでいる本人を毎日見ながら生活するのは家族としても耐えられないからというご家族自身の考えもあるかもしれません。
とはいえ、やはり、患者さん本人がどのくらい傷つくのか?一時的には傷ついたとしても、真実を知らされたことで新たな考えが生まれ、結果としてその後の人生が実りあるものになるのではないか?
家族もそのような患者さんを支え、一緒に道を歩んでいくことで、大変かもしれないけど、充実した生活と満足感が得られるのではないか?
ということは考えてから告知をするのか?しないのか?を議論したほうがいいかなって思います。
結局のところ、情報を制限したことで『選択肢』を奪ってしまうことが良いことなのかどうかというところが一番の問題なのかなって考えます。

医療者が、がん患者さん本人に余命を長めに伝えることに関してはどうでしょうか?
がん治療を始めたばかりに「余命」を聴かれても、その後がん治療がうまくいくのか、いかないのか。がんの進行スピードも個人差が大きいので、答えるのは正直難しいです。
「5年生存率は●●%です」というくらいでしょうか?
とはいえ、いよいよ抗がん剤治療も無効となって緩和ケア中心となり、さらに病状が進み、がんによる症状が色々と強く出てくるころになれば、おおよそこのくらいかな?っていうのは「その時期」が近づけば近づくほど、予測の正確さがあがります。
そういうときに、患者さんから「私はあとどのくらい生きられるのでしょうか?」と聞かれることが多いわけです。
患者さんも自分があまり長くはないことに薄々気がついており、その上で余命について聞こうか聞くまいか?何度も考えた末の結果として、我々にそのような質問を投げかけてくるので、基本的にはきちんとお答えすることにしているのですが
それでも正直に思っている通りの期間をそのまま伝えるのは、お互いにハードルがかなり高いです。
そこで最近よく使用されている話し方・伝え方として
「週単位」「月単位」という表現があります。

例えば余命が「月単位」といわれて何ヶ月くらいを想像するでしょうか?
多くのがん患者さんは6ヶ月から12ヶ月くらいと考えるのではないかと思っています。
では、「月単位」と言った医療者はどうかというと、1~3ヶ月くらいだろうと考えている場合が多いと思います。
伝えた側と受け取る側で、結構な期間の違いがあります。
でも多分これは、あえてそのように勘違いさせている部分もあるのかな?って気がしています。
正確に伝えようと思えば、「1~3ヶ月くらいだと思います」って話せばいいところを、あえて「月単位」という表現を使うことで、自分は1~3ヶ月くらいだと思っているけど、相手は半年くらいって思っているかな?でもそれでいいんじゃないって面が多分にあるだろうということですね。
とはいえ、余命が1~3ヶ月くらいになってくると、目に見えて体力が落ちてきたり、ちょっと前にできたことができなくなったりしてきて、体調の悪化が目に見えてきます。
患者さん本人が一番正確に自身の体調悪化を把握していると思いますので、本当にこのままで半年もつのかな?って疑問が湧いたりします。
そして担当医に再度聞いてみます
「以前、余命は月単位だって聞きましたが、最近どんどん体力が低下してきているので、自分ではそんなにもたないのではないかって思うんですが、どうですか?」
その様な質問を受けた担当医は、「この方は月単位を長めの月単位と捉えたのだな」って考えて、今度はこのように答えるかもしれません。
「少し勘違いさせてしまったかもしれません。月単位といった際に私が考えていたのは、『短い月の単位』です。」と
つまり担当医的には
長い月単位=6~12ヶ月 ではなくて
短い月単位=1~3ヶ月 と考えているということですね。
少し具体的になってはきましたが、まだまだ曖昧な表現であることに違いはありません。
しかも、前回「月単位」と説明してから1-2ヶ月経過している可能性があり、単純計算で残り1ヶ月くらいになっていたりするかもしれませんが
患者さんは、このとき「短い月単位」と聞いて、「じゃあ、3ヶ月くらいかな」って考えると思うんですよね。
担当医は前回話してからの経過時間を差し引いて考えれば、あと1ヶ月くらいだってわかるよねって考えていて
患者さんは3ヶ月くらいと、両者で考えている期間に「差」がある状態がここでも生まれます。
しかし、担当医はきっとこの「差」も本当はわかっていて、あえて言わないんだと思います。
こういうのも『優しいウソ』ということになるんだと思いますが、
僕的には「あり」と考えています。

なぜ「あり」だと思うかというと、『選択肢』を奪っていないからです。
余命1ヶ月といわれて何かしようという気は起きないかもしれないけど
「短い月の単位」といわれて、1ヶ月かもしれないけど3ヶ月くらいは残っているのかも。もしかしたら半年くらいは大丈夫かもしれないし。
そんなにたくさんのことはできないかもしれないけど、一つ一つやれることをやっていこう。
そういう気にはなると思うんです。
『選択肢』に関しては、むしろ拡げている可能性があるのかなって思います。

『優しいウソ』『残酷な真実』どちらがいいのかを考えるときに
その人の『選択肢』を奪ってしまってはいないか?
その『選択肢』を奪うことと『残酷な真実』を伝えること、どちらがいいか
『優しいウソ』で『選択肢』が拡がる可能性はないか?

そういうことをあわせて考えるといいのかもしれないって思いました。

今回も、最後まで読んでいただいてありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?