自己紹介
はじめまして!自由育成家のひさ(山崎 嘉久)です。
僕の自己紹介をご覧くださって、ありがとうございます。
本業は法人経営1年目。SNS事業・コンテンツ事業・教育事業の3つを中心としている会社です。
具体的な活動としては、
・X運用スクール運営
・自由育成コーチング
・ブレインアナリスト
・Xインフルエンサー
・Voicyパーソナリティ
・X運用コンサルティング
・X運用代行
・セミナー講師
・コンテンツ制作
が挙げられます。
それまでは18年間、京都にある某印刷通販会社にて、顧客サポートのマネジメントを担当。脱サラ後は、1年間フリーランスとして活動しておりました。フリーランスにおける最大月収は700万円です。
主な活動領域としてはXです。Xではお金に関する情報を図解を用いて発信しています。
また最近ではVoicyパーソナリティとしての活動を開始しました。
2024年11月のVoicy人気チャンネルランキング期待のルーキー編では18位にランクインしました(ありがとうございます!)
2024年現在39歳。
妻と娘(2007年生まれ)と息子(2010年生まれ)の4人家族です。
この自己紹介では、僕の約40年近い人生を綴りました。
こんな方にお読みいただけると幸いです。
振り返ってみると、苦悩と失敗の連続でした。
ただ諦めず、歯を食いしばって頑張ってきたからこそ、人生を変えることができました。
いま僕はありたい自分の姿を思い描き、たどり着けるように楽しく走り続けています。
「自己実現」
お金以上に価値があるものを、僕は見つけることができました。
心も体も幸せを実感できる毎日がいま目の前にあります。
これまで僕がどのように歩んできたのかを、
の3つの構成でまとめました。
ご覧いただけると嬉しいです。
経歴
幼少期
僕は大家族の長男として生まれました。
祖父、祖母、父、母、僕、弟、妹、弟の8人家族です。
幼いときから、礼儀やマナーを厳しくしつけてもらい、どこに行ってもしっかりしているね、立派だね、と言われて育ちました。
また長男坊ということもあり、「お兄ちゃんらしく」と我慢することも多かったですが、愛情をたくさんもらい育ててもらった記憶しかありません。
福井に住んでいる母方の祖父や祖母、叔父にもとても可愛がってもらいました。
僕の顔は母方の遺伝子の影響が大きく、しっかりした眉毛と少し垂れた目、やや高い鼻が特徴です。
身長もしっかり受け継ぎまして、小さい頃から低かったのですが、いまでも161cmと小柄。
よく体が小さいと態度がでかいと言われますが、まさに生意気な幼少時代を過ごしました。
また負けず嫌いで、なにをするにも勝たないと気が済まない気質なんですが、幼少期からすでに形成されていたように感じます。
小学校時代
小学校にあがる少し前から、近所のお兄ちゃんたちの影響で地域のソフトボールチームに入団しました。
僕の近所の周りには、歳の離れたお兄ちゃんが7人ほどいて、僕が小学校1年生当時で小学校高学年や中学生、高校生もいたりと遊ぶには恵まれた環境。
たんていや野球、ドッジボール、リレー、自転車競走、ファミコンなどいろいろな遊びを毎日のように楽しみ、夏には頭から湯気が出るほどの活動っぷり。
そんな仲の良いお兄ちゃんたちが居たので、ソフトボールチームに入るのも当たり前の流れでした。結果的に6年間ずっと続けたスポーツです。(ちなみに僕の兄弟は全員ソフトボールチームに入団しています)
いわゆる格上と常にスポーツをしていたので、学校でのリレーやマラソンなどの競技は1位か2位しか取ったことがありません。
また学校からもっとも離れた地区で、田舎でもないのに片道40分かけて学校に通っていたのもあったかもしれません。家の近くにある学校を通り過ぎて、もうひとつ遠い学校に行ってました。おかげで地区としても区民体育祭では毎度1位を獲得するほど、強豪地区でした。
幼少時代からの負けん気の強さや、お兄ちゃんたちとの遊びでの攻防もあり、スポーツでも結果を出していた自信から随分と生意気に育ったと自分でも思います。小学校1年生のときに、初めて会った6年生のお兄ちゃんをいじったりするほどの怖いもの知らずです。
とはいえ、友達には恵まれて、近所のお兄ちゃんもそうですが、同級生のたくさんの友達と仲良く過ごしていました。振り返っても楽しかった日々です。(ある期間を除いて)
しかし、そんな僕を面白く思わない同級生もいるわけで、小学6年生のときにいじめを受けることとなりました。同じソフトボールチームで同じクラスメイトの友だちでした。
最初は他愛ものない言い争いでしたが、しまいに手が飛び出るようになりました。また友達も巻き込むようになり、無視されたり、ひどい言葉を浴びせられるようになりました。
また仲良くしていた友達にも「あいつと関わるな」と忠告したり、ウソの情報を流して喧嘩するよう仕向けられたり。
昨日まで仲良くしていたのに、今日会うと無視されたり、殴られたりすると何も信じられなくなってきます。
モノが壊されたり、隠されたりすることはなかったけど、毎日背後に怯えながら過ごす日々でした。そして仕舞いに学校にいけなくなりました。
約半年間です。
朝、体温計を持ってトイレに入り、何とかして微熱以上の温度になるように脇で強くはさんだり、摩擦を起こしたり。いじめられていることを悟られないように休みました。いじめられていることを伝えて、報復されることが怖かったからです。
また、ときどき先生がお見舞いに来てくれましたが、いじめのことは言えませんでした。
休めば休むほど学校に行くのが難しくなるんですが、学校に行くぐらいなら死にたい。そんな気持ちでした。
それでも、家族や先生が小さくても居場所を作ってくれたり、勇気をもって立ち向かってくれる友達や見えないところで優しくしてくれる友達のおかげで卒業式には間に合うように学校に行けました。
いまではもう整理は付いていますが、それでも文章としていま書き起こしているこの瞬間は、胸のざわめきを感じています。
ちなみにいじめは絶対にダメなことですが、今ではこれまでの人生経験を踏まえて、いじめられる僕にも原因があったと結論付けています。
そう思えているからこそ、当時はかないませんでしたが、自分で状況や環境を変えることで、問題を解決できるといま信じることができています。
中学校時代
中学校に入ってからいじめはすっかりなくなりました。
元の小学校の生徒の半数が別の中学校に移ったこと、また4つの小学校から生徒が集まったことで、これまでとは違う交流が生まれました。
いじめの中心人物は同じ中学校ですが、クラスが別になり交流することがなくなったことが理由です。また興味が別に移ったということもあると思います。
どの学年でもクラスメイトとはすっかりと仲良くなり、楽しい毎日を過ごしました。元々一緒だった小学校のメンバーより、別の小学校のメンバーと感性が合ったので遊び相手は自然と変わって行きました。
40年経ったいまでも中学校のときのメンバーはお酒を酌み交わす仲間です。僕が通っていない小学校のメンバーで集まるときも、僕だけ呼んでもらったり、ずっと一緒にいるような間柄。小学校の終わりに友達に恵まれなかった僕にとってはかけがえのない宝物です。
部活はテニス部。父が、テニスが大好きで旅行に行った先などでよく一緒にテニスをしていたことが理由です。中学3年生になる頃にはキャプテンを務めました。が、試合になかなか勝てない弱小チームで、大した活躍はありませんでした。
テニスの思い出は、2年生のときにキャプテンと副キャプテンを相手に殴り合いの喧嘩をしたことと、女子テニスの後輩から告白されたこと。毎日の部活はただただ楽しかった印象しかありません。
また部活とは別に地域で活動していた少林寺拳法に入門しました。僕の素行がよくない、という理由で父親に連れていかれたわけですが、気づけば僕自身が夢中になって取り組んでいました。
先生や先輩、後輩に恵まれて、楽しく切磋琢磨しながら技だけじゃなく人としても成長できました。ここで学んだことがひとつ、僕の人生の教訓になっています。年齢を関係なく、一人の人間としてみてくれたことで、健やかな自己形成が進んだと振り返って、そう感じます。
また今日に至るまで、少林寺拳法のつながりでできた仲間(僕よりおじさまばかり)とは仲良くお付き合いしており、いまでもちょくちょく遊んでいまます。
あ、成績は中の下でした。得意な科目は体育。水泳を除いてはオール5です。数学と英語はズタボロ。。
高校時代
高校は家から自転車で通える学校を選びました。制服のほか私服がOKの学校だったので、みんな思い思いの服装で登校。個性があって、それで尊重される校風が心地よかったです。
高校では友達の影響を受けてハマったHIPHOP、R&Bなどブラックミュージックにどっぷり。高校時代の大半は音楽とともに過ごしたと言っても良いくらいにのめり込みました。
いい曲があったら、友達にシェアをして。それで喜んでもらえたり共感してもらえたりするのが嬉しくて、そのために音楽を聴き漁っていたのを覚えています。
高1からすでにクラブに通い、音楽に酔いしれて、自分もラッパーとしてインストトラックに合わせて、リリックを書いたり(作詞したり)していました。
文化祭やライブハウスなどでのイベントで披露するくらいで、後は自分たちで録音したり、歌ったりして楽しんでいた感じです。
話が少し脱線しますが、そのときにグループを組んでいたメンバーのうちの一人が、変わらず親友で、大阪で美容室を開いています。隔月で通い、お互いの活動の近況報告するのが毎度です。
高校では部活に入らずにバイト。料理人になりたいという夢を描いていたので、そのための準備でイタリアンレストランにて修行させていただいていました。イタリア料理は格段に美味しく地元で評判。調理を担当することはありませんでしたが、目と口で本場のイタリア料理を教えていただいたのはありがたかったです。
また(今だから言えますが)ワインも様々テイスティングさせていただき、中には何十年物のワインもありました。とても貴重な経験だったと振り返ってみても思います。
その後は好奇心からイタリアンレストランを辞めて、回転寿司チェーン店や中華料理店で働かせていただき、料理やお店のシステム、またコミュニケーション、社会の厳しさ・理不尽さを体験できたのは、料理のノウハウを知るだけではなく、人生のいい教訓になっています。
間違いなくここで培った経験が、社会人として活きるために必要な処世術の土台となりました。
専門学校時代
高校生で音楽に目覚めてラッパー、、ではなく音楽ライターとしての道を歩むことを決意し、大阪スクールオブミュージック専門学校に入学しました。
自分にアーティストとして生きていく素質がないことはわかっていました。ただ、なんらかの形で音楽に携わりたいという気持ちから、音楽に対する思いを世の中に伝えることで音楽業界を盛り上げる、音楽雑誌を発行する出版社への就職を目指しました。
といいつつ、副教科的にDTM(打ち込み音楽)を学び、作曲したり、先輩の皆さんにインストトラックを提供していただき、リリックを書いては大阪のクラブで歌っていました。高校時代の親友の美容師の友人やそのほか数名の仲間と夜な夜なライブをしていたのはいい思い出です。
知っているかわかりませんが、(すでに引退してますが)お笑い芸人として活躍していたおねだり豊くんもグループの一員でした。あらびき団に出たり、体育会TVに出たりしてたんじゃないですかね。
いまはどうかわかりませんが、大阪スクールオブミュージック専門学校は深夜も教室を借りて作業することができました。24時間作業しっぱなしなんてこともあるわけです。
「好きに没頭する」を誰にも邪魔されず、できる環境はありがたかったですね。
また、あのとき友人と夜中に残って、夜食として食べた冷凍チャーハンのおいしさは忘れられません。
実は専門学校在学中に、一度就職先が(仮で)決まりました。音楽出版社(現:株式会社シーディージャーナル)です。
国内外オールジャンルを扱い、また音響などの設備にも強みのある音楽雑誌「CD Journal」を発行している会社でした。ここの雑誌編集者として迎え入れていただけることとなりました。
就職前に研修名目で在籍させていただき、さまざまな音楽に触れ、僕の感性は養うことができました。当時JAZZピアニストである「Bill Evans」を特集した書籍発行のタイミングで、その本に校正者として携わらせていただき、僕の名前が世に出る本に出されたのは感慨深いものがありました。
またアーティストへのインタビューの仕事も付き添いさせていただき、KREVAやアンダーグラフなどのメジャーアーティストに直接お会いできたのはミーハー心ですが嬉しかったです。
ちなみに東京の神田にオフィスがあったため、お昼はカレー屋や中古レコード販売店を巡って楽しんでいました。エチオピアカレーには随分とお世話になりました(辛さ30倍で食べてました)。
約2か月ほどでしょうか。編集者としての仕事を学ばせていただいた後、ちょうど長期休暇の期間と重なったので、一度大阪に戻ることになりました。そのときに当時の編集長から給与の話をしていただいたんですが、最初は手取り14万ほどになる、と。
当時付き合っていた彼女(いまの妻)と結婚するつもりでいたので、夢を選ぶか、現実を選ぶ瞬間となりました。
今になって思うと、編集長は本当にこの業界に入るのか、僕の身を案じてくれていたんだと思います。夢を追いかける学生が現実を見たときに絶望しないか。親心のように気づかいいただけて、しっかりと冷静に考えることを諭してくれたからこそ、いまの自分がいると思います。
幼い考えを導いてくれた編集長には感謝しかありません。
そして僕は現実を選びました。
大阪に戻り、たまたま父が見つけた求人広告に掲載されていた京都の印刷会社に応募し、無事採用→入社することになりました。
あのとき夢を追いかけたら、いまの自由はなかった、です。
会社員時代
京都は印刷会社のメッカ、なんて言われていますが、その印刷会社の中でもネット通販で印刷物を受注・納品する印刷通販会社という会社に入社が決まりました。
印刷業界全体で言うとデジタル化の煽りを受けて下火ですが、売上は常に右肩上がり。新卒採用の案内ページにある会社紹介動画で、工場長が「印刷業界の暴走族ー!あなたも一緒に働いてみませんか」と言ってて「この会社大丈夫かな?」と思いましたが、入社してみて会社としての成長の勢いを感じて納得しました。(ちなみに悪い人たちの集団ではありません笑)
入社した当初は私服OK。割とゆるい社風。でしたが、低コストで高品質な印刷物の需要が高まり会社が急成長している最中→目の前の仕事と合わせて、会社内部の内部統制が急がされる日々でした。私服から制服やスーツに変わり、徐々に緊張感のある職場に変わってきました。合わせて、待遇も改善して、関西在住の会社員として考えると、給与や休日は満足できるレベルだったと思います。
ちなみにいま僕が入ろうとしても、書類選考で落とされます。
そんな会社で僕は通販サイトを利用する顧客をサポートする、カスタマーサポートに所属することになりました。電話・メールでの対応がメイン業務です。
業務をこなす日々。忙しい毎日で会社を出るのが終電時間、なんてこともざらでした。会社と自宅の往復の毎日です。2~3年ほどして周りが見え始めるころ、「目の前の業務をこなしてるだけでは、状況は変わらない」と考え、当時の課長にWebサイト改善によるお問い合わせ削減を提案。抜本的に状況を見直すことに取り組みたい意思を示しました。
周りの仲間が顧客対応をしている中、お問い合わせ削減案を検討・実施。正直なところ、白い目で見られていました。「俺たちがしんどい思いして顧客対応している中、あいつ(ひさ)は何をしてるんだ」と。
とある日の課内会議。顧客対応の議題に対して「このようにしてはどうでしょうか」と提案したところ、先輩から「顧客対応してないやつが口を出すな」と言われ、フォローしてくれると思った課長から何の言葉もかけてもらえなかったときに流したくやし涙は生涯忘れません。
逆風が吹く中で、自分の信じる道を貫く孤独感を学ぶことができた、いい機会だったなと振り返りそう思います。このときの経験があるからこそ、暗闇の中でも一人で走り切ろうとする胆力が身に付いたんだと考えます。
その後も腐らずにお問い合わせ削減を進めてきましたが、当時の部長に目をかけていただき、これまでの活動を思う存分推進できるマネジメントの役割を任されることになりました。
マネジメントのために必要な業務管理ツールの設計・構築や業務分析・改善内容の立案、チャットボット導入・業務委託化による人的コスト削減、またWebサイト改善によるお問い合わせ削減など幅広く取り組みました。
学生時代は直感的に生きてきたのですが、業務改善を行う上で、また部長や社長、顧客への説明責任が多くなってくるにつれて、ロジカルに伝える必要に迫られました。感覚だけでは太刀打ちできないと「直感を説明するための論理」を意識して、思考・言語化してきました。日々の仕事の中で、このスキルを磨けたことは僕の財産です。
会社を辞めるころにはカスタマーサポートの実質責任者であり、課長代理の役職と直属の部下20人と沖縄支店、業務委託先の管理、個人情報保護事務局員、QMS監査員を任されていました。
フリーランス時代
2023年8月脱サラしてフリーランスになりました。会社を辞める2年ほど前からXでの副業で収益が生まれはじめ、フリーランスになることには生計を立てられるまでに成長できていました。
とはいえ、辞めたきっかけは副業収入になく、会社で起きたとあるできごとでした。2年後の2025年を想定していましたが、思いがけず少し早まることとなりました。できごとについては、僕自身の整理ができたら話したいと思います。
ちなみに副業は会社を辞める4年ほど前から始めました。最初は副業ブログ。ですが、2年間収益が上がらない日々を過ごしました。その後、Webライターに転向して、X運用を開始。1か月ほど経った頃、もうひとつ収益の柱を用意したいと、X運用で活用していたデザインスキルを元にデザイナー業を始めました。
これが僕の性に合っていたので、ライター業を辞めてX運用とデザイナーの2軸で副業することにしました。
フリーランスになって初日。2023年9月。とある女性経営者の方から東京で行われる交流会にお誘いいただきました。
XやInstagramで活躍されているインフルエンサーから、書籍出版者や会社・店舗経営者、グラビアアイドル、セクシー女優、お笑い芸人、バーレスクダンサーの方など、多種多様たくさんの方々が集まる会。
そこで自己紹介の1分スピーチがあったのですが、皆さんの経歴や自信、人生を楽しんでいる姿に魅了されて「僕もこんな人たちに少しでも追いつけるようになりたい」と思う自分がいました。来年また交流会に呼んでもらえるように。その想いで1年後の2024年9月の法人化を目指すことを目標にしました。
そのために何をしたらいいか、を考えたときにこれまで僕が培ってきたX運用とデザイン、マネタイズのスキルを活かせる「コンサルティング」と「X運用スクール」のサービス化でした。
結果的にたくさんの方からご応募いただき、限定コンサルティングは常に満員。X運用スクールには30名を超える方にご参加いただいています。
ここまで来れたのは、紛れもなく家族やメンター、X仲間の応援とサポートおかげでした。そして「覚悟」。また数か月間の暗闇を自分を信じて突き進むことができた孤独との闘いも、会社員時代の経験が活きたと感じています。
スクール開校後の2024年7月には、ひとつの目標だった海外旅行に行きました。マレーシアのクアラルンプール、インドネシアのバリ島、タイのバンコクに2週間滞在して、新しい文化に触れながらワーケーションを楽しみました。
現在
そして2024年9月に法人化。1年前に立てた目標を達成し、同月に再度参加した交流会でその旨を報告しました。
株式会社GORAQUE(ゴラクエ)
「〇ラクエ」新しい挑戦をあのRPGゲームのように攻略する
「GO!ラクへ」新しい挑戦をもっと楽にする
「娯楽へ」新しい挑戦を楽しい遊びにする
僕としてはちょっと背伸びした挑戦です。でも誰かの挑戦をより楽しくワクワクできるようにサポートしたい。そんな想いで設立しました。
そして僕の人生のコンセプトは「自由に生きる」「自由に生きたい人を応援する」です。個人としても会社としても、もっと楽しい毎日を過ごしていただけるようにできる活動をどんどんしていきたいと考えています。
そのために僕は自分の未来を創り自走できる「自創(じそう)」プログラムを開発・提供していきます。最終的に自分ひとりで(または自分の仲間たちと)いろんなことに挑戦し、達成していける自走力こそ、本当の『自由』を得るために必要不可欠なスキルだと理解したからです。
最新の脳科学を活用した強み・弱みの理解、目標達成を急速推進するコーチング、自分で目標達成の課題発見と分析改善ができる論理的言語化スキルをプログラムとしてパッケージ化したものを近日リリースします。
ここでリリースするものは単に"サービス"ではありません。ひさ(山崎嘉久)のこれまでの人生です。僕のすべてを受け取っていただきたいと考えています。※もし興味がある人は現在モニター募集しています。参加希望の方はDMください。
ということで、僕の半生をかいつまんで自己紹介というカタチで言語化してきました。僕という人間を知っていただき、どこか共感したり、ワクワクを感じたりしていただけるようでしたら、仲間として仕事を通じて、ご一緒させてください。
最近ではコンサルやコーチングなどのお仕事やX運用スクールの生徒たちとの交流、海外旅行、トライアスロン、フルマラソンでクライアントや仲間とワクワクを共有しています。あなたもいかがですか。
一緒に自由な人生を楽しみましょう。
人生で得た教訓
人生を歩む中でたくさんの人と出会いました。いろいろな価値観に触れ、喜怒哀楽し、ときに悩み苦しい状況の中で、手を差し伸べてくれる人のおかげで、得ることができた教訓がありますのでシェアさせていただきます。
どれも僕自身を構成する一部です。
半ば自分のため、半ば人のため
これは少林寺拳法の教えです。自分の幸せのためだけを考えて周りに目もくれない、相手の幸せのために自分をすべて犠牲にする。そんな生き方は本当の幸せじゃないと考えます。自分も幸せだし、相手も幸せ、そんな状態が穏やかで楽しい毎日になります。
順番も大事だなって思ってまして、僕は自分を満たしてあげることをまず優先させたほうがいいと考えています。自分が幸せだからこそ、相手を幸せにできる、って思っています。自分が幸せじゃなければ、相手に温かい気持ちで接することができないんじゃないかなと。
自分をないがしろにして周りに気遣う人が多いですが、そのうち心が壊れてしまいます。まずは自分との対話と心を満たす行動からしていきたいです。
困難は分割する
とてつもなく大きな目標も分割してしまえば、達成可能な小さな目標となります。長い道のりであっても、一歩一歩足を進めた先に確実にゴールがあるわけなんですよね。
とはいえ、途方もない道のりをずっと走り続けるのは至難の業です。だからこそ、分割して小さな目標を立てることが重要だと考えています。
また小さな目標にして達成していくことで、成功体験を得られ、自己肯定感もアップします。この考え方は会社員のときはもちろん、いまも活きています。
先に差し出す
自分が何かを得たいのであれば、先に差し出すことが重要と考えています。しかも圧倒的に。優しくしてほしいのであれば、先にめちゃ優しくする。応援してもらいたいのであれば、まずは自分からめちゃ応援する。という具合です。
また副業収入を手に入れたいなら、まずは自己投資というカタチでお金を払う、というのも同じです。
求めるばかりでは手に入らないことが多いです。まずは先に差し出すことで、相手は自分のために何かしてあげたいという気持ちになります。それは自分が同じ立場でも一緒かなと思います。ただし見返りは求めないこと。それでも大丈夫。お天道様が見てくれている。運を貯めることができている。
直感を信じる
直感ってあながち間違いじゃないなって思っています。これまで生きてきた人生経験、人間として遺伝子レベルで感じる信号の精度は高い。過去を振り返ってみても、直感を信じた結果、成功することが多かったし、逆の場合、失敗することが多かったなと思います。
人付き合いでも、違和感を感じるとやっぱりあとに何かあるんですよね。簡単に約束を破るとか遅刻するとか。
直感を信じて行動するようになってから、自然といい方向に導いてくれますし、素敵な人との出会いが増えてきました。感じるまま、決断・行動。
しんどいときは寝る
無理をして頑張ってもいい結果にならないです。パフォーマンスがよくないから、何をやってもうまくいかないし、他人に迷惑をかけることだってあります。
だったら、潔く休んで寝る。そして全快してとびっきりのパフォーマンスで自分のできることを全力で取り組む。そうすることで自分だけじゃなくて、周りにとってもよりよい結果を生むと考えています。
心にも体にも栄養を与えるには寝ることが一番。そして、そんな睡眠の質を上げるために、マットレスと枕など睡眠環境はかなり整えてます。
笑顔が幸せを運んでくれる
ニワトリが先かたまごが先か、なんて話もありますが、僕は幸せに限って言うと、幸せだから笑顔になるんじゃなくて、笑顔だから幸せになると考えています。
笑顔で機嫌が良さそうな人とムスッと不機嫌そうな人、どちらと仲良くなりたいか、どちらと仕事がしたいか。前者だと思います。チャンスを運んできてくれるのも、きっかけを運んできてくれるのも人です。そんな人から好かれるために笑顔は大切。
だから笑顔でいたい。毎朝鏡の前で笑顔をつくって一日を始めるようにしています。集中した真顔が怖いと言われることがあるので、ここは気をつけたいところです笑
自分で決めた道を正解にする
人生は選択の連続です。別の世界線を生きられるわけじゃないですが、「もしも反対側を選んだら…」なんて考えるのも人間。後悔するできごとがあったときこそ考えがちだと思いますが、僕は過去に対するタラレバが苦手です笑 なぜなら過去を変えることはできないから。
だから過去に意識を向けるんじゃなくて、いまと未来に意識を向けます。「目の前で起きている問題や課題は自分に何を与えようとしているのか」そして「どのような行動をすれば自分にとってよりよい未来になるのか」
自分で決めた道を正解にしていくことで、生涯を通じて後悔のない人生が歩めると考えています。
僕が目指す理想の未来
僕がこの先の未来で思い描いている理想です。理想を言葉にするからこそ、自分の頭にアンテナが立ち、自然と必要な情報や人、機会が訪れると信じています。
だからいまここで僕の理想を記しておきます。
ノマドワーカー向けのスクールを開校する
2027年にノマドワーカー向けのスクールを立ち上げます。学生の頃、夢と希望に溢れた未来を描いていたのに、社会人になって環境が変わり、そんな未来を萎ませていく人を何人も見てきました。そして自分もそんな一人でした。
「本当に自分の人生はこれでいいのか」自問自答している人に、自分らしい自由な人生を歩んでほしい。そんな気持ちで可能性を拡大させる、夢を実現させるスクールを立ち上げたいと考えました。
僕は高校卒業後、夢を売る専門学校に入りました。本当に一握りの人間だけが勝ち取れる夢。大半の人は夢半ばで別の道を歩むことに。これは僕の目指すスクール像ではありません。
僕は専門学校でかけがえのない貴重な経験とご縁をいただきました。すべてにおいて否定しているわけではないのですが、磨けば光る原石だけじゃなくて、僕みたいな凡人も含めて再現性を感じられるそんなスクールにしたい。
だからこそ、いま運営しているX図解攻略スクールもコンテンツやセミナー、サポート体制を整えて、スクール生の夢実現を応援しています。
そして、もっと多くの人をサポートできるよう"ノマドワーカー向け"というリモートワーク全般を扱うスクールを運営できたらと考えています。
僕をきっかけで自由に生きる人を500名輩出する
大きく出過ぎているように感じますでしょうか。僕にとっての理想の未来は、「自由な生きたい」と心を躍らせる人がスクールに入って終わり、ではなく、実際に自由に生きるところまで見届け、生涯を共にする仲間となるところまでイメージしています。
いまの自宅を拠点に国内外、または海外へ。それこそ海外を飛び回る生活でもいい。「自分らしい自由を生きる人」を500人輩出します。そのために再現性は不可欠なんです。
世界を回り、世界を知り、世界を伝える
僕の人生のコンセプトは「自由に生きる」「自由に生きたい人を応援する」です。そして半ば自分のため、半ば人とのため。まずは自分が自由であり、世界を回り、世界を知って、世界を伝える。自分の"好き"のシェアしたいという気持ちで理想の未来を描いています。
ようやく僕も2024年夏に自分の力で世界を知る旅を実現しました。そしてこれからも世界を回り、知る、そしてあなたに伝えるために旅を続けます。
失敗するかもしれない。それでもいい。恥ずかしいことじゃない。諦めなければ道は途切れないし、続きます。
自分とあなたの自由のために。今日もゆったり、全力で、人生を旅します。