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「維持と探索」って? (2/3)

前回のつづき)

 英語の塾の上司、田中さん(仮名)は、超のつくしっかり者だった。頭は切れるしかなりの早口、加えて、自分の喋り方が、ほかの人には厳しく映ることもわかっていて、「わたしこういう話し方ですごく圧を感じるかもしれないんですけど普通にしててこんな喋り方の人間なだけですから特別攻撃的な意図を勘繰らないようお願いしますというかこういう性格なのでもしなにかあったら必ずはっきり言うタイプです」と水が流れるように言う。言葉でそう説明されたところで、句読点がないのに意味の通る長文をぶつけられればやっぱりこわい。しかもしっかりした人なので、仕事の指示は厳密である。ミスをした場合にかけられる「わたしここにはこれをこうしてくださいって言いませんでしたっけどういう言い方でしたか」と、自分の指示内容を点検するためだけの言葉とはいえ、厳密なもんだからどうしたって「詰ってる」感がでてくる。ところがある日、私が鞄につけていた、サブカル漫画の黄色い缶バッジを発見した田中さんが急に近づいてきて、「あれ蒜山さん鬼滅の刃ってみてますかわたし煉獄さんのこと大好きなんですけどあれこの缶バッジ黄色いだけで煉獄さんとか鬼滅とか関係のないやつか、なあんだ漫画のバッジか、なあんだ」といつもの調子でタタタタッと言われたときに納得した。なあんだ、こういう人なのか!鬼滅の刃も漫画だろ

 結局ぼくは田中さんのことが大好きになる。賢い、ちゃんとしてる、憧れる。立て続く業務連絡の末尾に、「やってもらいたいことがあったらすぐに伝えるようにしてますけど蒜山さんのほうでもタイミングによっては業務がすごく立て込んでることがあると思うのでそういうときは今は忙しいってはっきり言ってほしいんですが、はっきり言うのは性格的にためらわれるってことだったら「いつまでにやればいいですか?」って聞き返してもらえればそれでこっちで今は忙しいんだなってことを察しますから」なんて言葉も、表情ひとつ変えぬまま添えられる。気遣いがすごいのだ。勢いはこわいけど。

 その塾、「いいとこ」の子らの通うリベラル進学塾である。通うのは子供たちだが、真の顧客は保護者たち、で、保護者たちの多くは、社会的な立場が高い。すなわち、闘う力があらゆる意味で、高い。ご家庭のなかでお子さんが、どのように振舞うかはわからないし、保護者同士のネットワークというやつはばかにならない。仕事現場=教室でのわれわれの対応の程度は必ず、多少なりとも歪曲されて真の顧客たちに伝わる。われわれの目の前にやってくる子供たちの年代は思春期のはじまりから終わりまで。脆く曖昧で切実な時期まるごと。こっちがどれほど察してやるかが生徒みんなの心(ひいては真の顧客ケア)に重要だけれど、当然ひいきもよくない。どれほど同情しすぎず、共感しすぎず、一線をひいたままで察してあげるか。ここがポイントになる。

 田中さんはこの点でも巧者だった。こういうタイプの子でこういう風に振る舞ってるってことは、きっとこういう気持ちだろうから、こんな具合の対応をするのが、ベストでないにしてもベターではあるんじゃないか。真剣にそう提案する田中さんの、口ぶりだけなぞり返せば精神科の診断チャートのようだが、いいえ田中さんは医学知識をもとに症例への判断を精査しているんじゃないんだ。人生経験をもとに、悩める十代への言葉遣いを微調整している。僕はここに、「想像力」の芯をみた気がした。同情や共感ではない。経験に基づいた、知的な建築であった。だって「同じ気持ちになる」なんてどだい無理な話で、「その気持ちわかるよ」なんて嘘なんだ。「人の気持ちへの想像力」っていうのは、誰かが感じているだろう気持ちを、その誰かと同じように追体験・疑似体験する能力のことじゃなく、「その人と同じ人物では決してありえない自分が、その人に対して行える、その人が必要以上に戸惑ったり傷ついたりしないふるまいとはなんだろうか」を探る能力のことだった。

 生きてるうちに、やなこといいこと重なって、傷つけたり傷ついたりして、感じやすさや感じ方、許容できるものの質や深度が変化していく……これは、ただの「順応」でしかなくって、ここからわざわざなにかを学ぶ、ってのは、順応の経緯経験の諸々を一次資料にしたうえで、知性でもってして、自分独自の「マニュアル」を作成、更新し、守っていくことらしい。そんなことを、田中さんによってようやく気づかされる。ほんとは、これまでだって、それなりに薄々できていたことなのかもしれないけど、田中さん流の、筋道の通った早口でハキハキ言葉にされる生徒対応プランニングのインパクトに、はっとさせられた。

 そしてまた、「想像力の獲得とトレーニング」は、もうだいぶ前に述べた、「英語を学んでいくこと」とそっくりである。基礎的なものをひと通りざっと一覧したら、あとはひたすら実際の運用を重ね、どんどんこなれていけるといい。やり続けること、そして、次々と現れるレベルごとの壁にしっかり取り組むこと。このサイクルに飛び込んで、ひたすら重ねていくこと。

 毎週、毎曜日、決まった時間に、予定どおりの授業が予定どおりに行われなければならない。塾でわたしは、まさにこのことをサポートしていました。ところがどっこい、これがどうしてか、うまくいかない。あの生徒が早く着きすぎた、え中央線とまってるの?小テストの解答欄の数あってなくない?エアコンが不調、トイレットペーパーがきれてる、鼻血を出す生徒、代行講師が迷子になってる、あの生徒また宿題忘れてきた、ホワイトボードマーカーのインクきれてる、間違えて迎えにきた知らないおばあさん、ここの部屋のプロジェクターのファンすごい音しませんか? 忙しいんだ、忙しいんだよ。日常を維持するというのは、あんがい大変で、ずっとずっと気ぃ張ってなきゃなんない。これは耐えですね、オトナのふるまいです。
 掃除してもしなくてもいずれ散らかる。けど、それでも毎日片付ける。そこにそれなりにエネルギーを傾け続けるのが日常ってやつのキモらしい。人生ってそういうものなのかしら。連想するのは修道院や刑務所の暮らしのイメージ。このイメージがつれてくる質素さのリフレインには、純化された尊さやたくましさが響いている。破天荒なドライブを騒ぐのでなく、安全運転をし続けることの難しさ、ダイナミックに乱れた曲線よりも、無機質な直線を描く方が難しい。文化祭の準備みたいな「1回」を目指す派手なエネルギーの使い方に比べれば地味です。

 これ逆に言うと、派手なエネルギーの使い方なら毎日できないよね、という話でもある。家事は面倒だけど、こなせるレベルの面倒さでもある。よくオートミール食べてた時期にふと、「ある程度退屈なものじゃないと続かないのかもなあ」と思いました。フルーツグラノーラのほうがはやく飽きる気がしたんだ。いろんな味、彩りがあるフルーツグラノーラは、日常的に食べ続けるにはおもしろすぎる。そっちのほうがつらい。白米だって、白米だけでばくばく食べれるようなおもしろさがないから毎日食べられるんじゃないかと思う。一見インパクトのあるものは、はじめはいいかもしれないけど、そのうち、ねえ?

 おっと話がそれました。そろそろまとめていこうと思います。

(つづく)→ つづき

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