子を産んだ数だけ、救済してほしい

仕事と育児の両立は、子どもを産んだ人数分、ダブル、トリプルと倍数で大変になってくることに、三児を産んだ後に気づいた。何度も流産を経験していることもあり、授かることは奇跡で、産むことが正義だと思っていた。脳と子宮がお花畑気味だったのかもしれない。

しかし、40代で、限界を感じるようになった。子どもが卒乳しても、卒園しても、小学校を卒業しても、育児は続く。今は中学生、小学生、幼児のトリプルコンボだ。相変わらず、多子の育児は私の脳処理への負荷、身体負荷も高い。今こそ、育児の何かを手放すべきだ。

そして、育児をアウトソースするために、私は周りにベビーシッター業者を聞きまわったのだが、その中でパパ友さんから出た発言。「そもそも、育児にアウトソースという言葉を使うのか?」

アウトソースとは本来、タスク(モノ)に対して使う表現はないか、というパパ友さんの疑問からきた直球の質問だと思う。私は「育児もアウトソーシングされていますよ」と簡潔に返したが、彼のこれまでの主張を察するに、「子どもの発達の一つ一つは、自分も関与することで成長でき、そういうことができる社会(男性育休、男性の育児時間の伸長、延長保育不要)を望む」ということが言いたいのだろうなと思う。

お気持ち、わかりますよ。
でもね、それを三児の母親(父親)に課すと、母親(父親)が倒れるよ。母親(父親)が自分の仕事を手放すか、育児を手放すかの二択が迫ってくるよ。そこに後半戦で自分の親の介護が来るからね。子だくさんの人生は無理ゲーであると自覚して、何を手放せるのかLEANの思考をしないと。

私は未だに衝撃を忘れない。妊娠中は私は名前で呼ばれたのに、出産初日から、入院中、医師や助産師が、私をひがさん、ではなく、「お母さんがー」「お母さんはー」と、お母さんと言われたことを。何なん、その金一封なき、重圧プロモーション。

私は未だに根にもっている。某有名教授が、令和6年にもなって、「母親は育児に専念してください」とzoomで語ったことを。つまり、zoomという公開録音されている場で、権威がある方がこの発言をして、補足で入った女性教員も同調されたことを。同調圧力で終わる話ではない。多額の税金が投入されている事業で、リスキリング認定されている講座で、この発言は社会的に不適切だ。恐らく、この学校は、入学に筆記試験と面接があるので、面接で母親を落とすんだろうな。面接という名のバイアス(偏見)の正当化。

ガラスの天井は、ハイヒールではなく、運動靴で踏んでほしい。バリキャリとは、己を捨てて生きることではない。男に対してバリキャリと言わないのに、働く女性に対してバリキャリとか、マミートラックとか、マミーギルトとかいうnamingがついていることの性差の矛盾に気づいてほしい。

私は今日も考える。どうすれば、令和を生きる娘達が、好きな数だけ子供を産み、育てながら仕事できる社会になるのかを。

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