陶酔

「ここだけの話…」
「はい?」
「ほんと、ここだけの話、酔っ払いの戯言だと思って聞き流してほしいんですけど」
「えぇ」
「というか、聞かないでほしいんですけど」
「じゃあ言わなきゃいいじゃないですか」
「でも聞いてほしいんですけど」
「相当酔ってますね」
「僕、先生に人を殺してほしいんです」
「え?」
「人を、殺してみてほしいんです」
「何言ってるんですか」
「別に交換殺人とかじゃなくて、誰かを殺してほしいんじゃなくて、ただ人を殺した先生が見たい」
「悪趣味ですね。もう帰りましょう。酔ってるし、疲れてるんですよ。締切を守れなかった僕が悪いんです。ここはおごりますから」
「聞いてください!」
「聞かないでほしいって言ってたじゃないですか」
「先生のファンなんです」
「えぇ、いつもありがとうございます」
「先生の担当になれて幸せです」
「こちらこそありがとうございます」
「先生の書く文章が好きです。先生の描く人間が好きです。先生を通して見た世界が好きです」
「熱烈過ぎて照れますけど…」
「先生が人を殺したら、どんな世界が見えるでしょう」
「…」
「あんなに穏やかで優しい文章を書く人はどうやって人を殺すんだろう。命が消えていくさまを、理不尽に潰された未来をどうやって書くんだろう。その感触は、光景は、先生の体にどう残るんだろう」
「…」
「心は喜びの声を上げるのか、軋んだ音を立てるのか」
「…」
「ねぇ、先生、聞いてますか」
「……もう帰りましょう。タクシー代も僕が出します」
「気になるんです。読んでみたいんです。僕が最初の読者になって、僕が最後の読者がいい。僕だけがその本を読むんだ。先生の、内側の…」
「題材としては面白いと思いますが、作家は想像力をお金に変えているんです。実際に事を起こさなければ書けないと思われているようでは、僕もまだまだですね」
「違う、違うんですよ…。想像じゃない、先生の本当を…先生さえ知らない…」
「そのときが来たら考えます。……きっと出来上がるのは書店にも並ばない駄作でしょうから、そうしたらあなただけが読んでやってください」