シュヴァルツバートンの森

“行けば戻れぬ黒い森”。そう呼ばれる森がある。二度と戻って来られぬ代わりに、死者に会える場所だという。最愛の妻を亡くした男は友に最後の別れを告げ、今日、出発する。


「本気か!? シュヴァルツバートンの森って言ったらお前…」
「………」
「……行けば戻れぬ黒い森」
「あぁ」
「考え直せ。そんな迷信、信じるタチじゃないだろう!?」
「迷信だろうがなんだろうが、あいつに会えるならなんだってする。離せ」
「死んだ人間には二度と会えないんだよ…!」
「……」
「…彼女が亡くなってお前が辛いのは分かってる。俺だって辛いがそんなの比べ物にならないだろう。でもだからって…」
「離せ」
「会えたとして彼女は喜ばない! お前を怒って、そうして自分を責めるだろう。こんな場所までお前を導いてしまったってな。そういう人だった。優しくて清らかで、温かい人だった」
「あいつのせいじゃない。俺の意思だ」
「お前は生きろ。それが彼女のためだ」
「……生きて何になる」
「死ねば彼女との思い出もなくなるんだぞ。彼女が生きた証を覚えていられるのはお前だけだろう?」
「思い出がなんだ!……そんなのいくらあったところで、あの家は静かすぎる。楽しそうに歌う声も、弾むような足音も、俺に向けてくれた笑顔もない。……もう、何もないんだよ」
「だからって…」
「止めないでくれ」
「お前は生きろ…生きてくれ…。昔好いた女にも、無二の親友にも死なれたら俺はどうすればいい」
「お前はひとりでも生きられるよ」
「ならお前だって…!」
「俺は…っ!……俺たちは…あの日、生涯をともにすると誓って、互いが互いの半身となった。俺はもう“ひとり”ですらない。彼女が死んで半分だけが残った。半分だけ…」
「……」
「彼女のあったところが、ひどく寒いんだ」
「それでも…」
「……」
「……死んだ人間に会えるわけがない。黒い森だって、トウヒの木がうっそうと生えた手入れの入らない場所だからだ。行った人間が戻らないのも磁気を帯びた濃霧にコンパスが狂い、地面がぬかるむから。そういう最悪な環境を、誰かが面白半分に『死者に会える森』と呼んだだけだろ。笑えない冗談だ」
「……頼むよ。もうこんな馬鹿げた話にすがるしかないんだ。誰が言い出したかも分からない、遠く東のお伽話。俺は、もう一度彼女に会って、、名前を呼んでほしいだけなんだ…」