【大乗仏教】後期中観派の中核2
以下の前回の記事の続きになります。
ここで、形象とは唯識思想における主・客(主観・客観)を指します。即ち、主観=末那識+六識、客観=六識内の表象です。そして、照明と光り輝く心は同じものを示しており、阿頼耶識の中心(主客を照らす箇所)となります。阿頼耶識の表層には種子が保存されており、この種子から形象と次刹那の阿頼耶識の表層自体が生起します。
第一の段階では有部や経量部など、アビダルマ哲学の十八の範疇(十八界)を対象として瞑想が行われることになります。それは「ある限りのものを対象とする段階」と呼ばれます。ヨーガ行者は思惟による雑念を棄て、心をその対象に専注し、静寂にします。それが成され、「止」が完成すると、次に行者は思惟を用いて十八種の真理を観察し、それが誤りのない真理であることを確信して「観」を達成することになります。このように止と観との二つのヨーガを並行させることに成功すると、両者の統一「双連」が達成されます。
第二の段階においては、外界を対象とするのではなく心(内界)が瞑想の対象となります。外界の存在と思われるものは、実は心(識)の中に存在するものであり、外界とは認識における表象に過ぎないこと覚ります。これを対象として止・観・双連を修習するとあります。この段階は「ありのままの真理である唯識を対象とする段階」と名付けられます。
第三の段階において、ヨーガ行者は心の形象(主・客)が心の本質に属するものでないことを覚ります。心の本質は形象(主観と客観)を離れた照明(光り輝く心)そのものであるという真理です。この真理(照明)を対象として、止・観・双連を繰り返すとあります。形象側にある末那識視点で、照明を観察することになります。この段階は「真如を対象とする段階」と名付けられます。
第四段階は第三の完成であるとされます。第三の段階では真如(照明=光り輝く心)はまだ瞑想の対象として設定され、形象視点側からの観察でした。ラトナーカラの解釈において、第四の段階では真如(照明=光り輝く心)は対象であることをやめ、行者の視点は真如(照明=光り輝く心)側そのものとなり、形象を完全に越えた智慧(無分別智)を得ることになります。この段階は「無顕現の段階」と名付けられ、無顕現を対象とする段階とは言われません。
一方、シャーンタラクシタによる第四段階の理解は上記のラトナーカラとは異なります。シャーンタラクシタは認識という同一性において、照明と形象が結びついている以上、片方を真理、もう片方を虚構として両者を完全に切り離すことはできないという考え方でした。形象を完全に越えた智慧(無分別智)を得るということは、照明(光り輝く心)をも越え、「絶対的な空」という真如そのものとなるということになります。
この段階を完成すると、ヨーガ行者は信解行地(加行道)=四善根が完成して自らは真理を覚った状態となります。次いで、菩薩の十地へ入っていきます。