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【大乗仏教】中観派 ニルヴァーナに関する議論

今回は『中論』における龍樹と反対派(おそらく有部)の議論を見ていきたいと思います。

反対派(有部?):
「もしも、この一切が空であるならば、生も滅も存在しない。聖なる四つの真理(四諦)の無いことが汝に付随して起こる。聖なる四つの真理が存在しないから、完全に熟知すること(知)、煩悩を断ずること(断)、道を修習すること(修)、ニルヴァーナを直接に体得すること(証)とは有り得ない。それが無いが故に四つの尊い果報は存在しない。結果が無い故に、結果としての状態(位)もなく、また目標に向かって進むこと(向)もない。もしも、それらの八賢聖(四向四果の聖者)が存在しないならば、修行者の集い(サンガ)は存在しない。また、聖なる四つの真理が存在しないから、正しい教えもまた存在しない。法ならびに僧がないが故に、どうして仏が有り得ようか。このように、空を説くならば、汝は三宝をも破壊する。空を説く者は果報の実有、非法、法、及び世俗の一切の慣用法をも破壊する。」
龍樹:
「汝は空における効用(動機)、空そのもの、及び空の意義を知らない。二つの真理に依存して、諸々のブッダは法を説いた。世俗に覆われた立場での真理と究極の立場から見た真理とである。この二つの真理の区別を知らない人々はブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。世俗の表現に依存しないでは究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。~どんな縁起でもそれを我々は空と説く。それは仮に設けられたものであって、それは即ち中道である。不空なるものも存在しない。もしも、この一切のものが空でないならば、生起することも無いし、消滅することも無いであろう。そして、汝にとっては四つの真理が存在しないということになるであろう。」
反対派(有部?):
「もしも、この一切のものが空であるならば、何ものかが生起することも無く、また消滅することもない。何ものを断ずるが故に、また何ものを滅するが故にニルヴァーナが得られると考えるのか。」
龍樹:
「もしも、この一切のものが不空であるならば、何ものかが生起することも無いし、また消滅することもない。何ものを断ずるが故に、また何ものを滅するが故にニルヴァーナが得られると考えるのか。捨てられることなく、新たに得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。これがニルヴァーナであると説かれる。」

龍樹:
「もし、生起と消滅がなければ、何ものが消滅して涅槃するのであろうか、と聞くならば、答える。実体として生起することもなく消滅することもないことが解脱ではないのか。もし、涅槃が消滅であるなら断滅ということになるし、もし、それを逆と見るならば恒常となろう。従って、涅槃は存在でもなく、また無存在でもなく、生起もなく、消滅もない。

両者で「本体」の定義、「空」の定義を確認し合わないまま議論が進められているため、すれ違いが生じているように見受けられます。

反対派(有部)は、一切が空であれば、煩悩を断ずる・涅槃を得るということがなくなると主張します。「空」を一般的に考えると、反対派の主張は確かにその通りです。しかし、それに対し、龍樹は逆に一切が不空であれば、煩悩を断ずる・涅槃を得るということがなくなると反論します。龍樹の基準では、不空=本体として存在するものは生起も消滅もしないからです。

龍樹:
「依存性(縁起)を我々は空性であるというのである。その空性は仮の名付けであり、それは中道と同じことである。依存しないで生じたものなぞ何もないのであるから、空でないものなぞ何もない。この空性を会得する人には全てのものが会得される。空性を会得しない人にはいかなるものも会得されない。二つの真理(二諦)によって、諸仏の説法は行われる。世間一般の理解としての真理(世俗諦)と最高の真実としての真理(勝義諦)である。これら二種の真理の区別を知らない人々は仏陀の教えにある甚深の実義を知らない。言語習慣によらないでは最高の真実は説きえない。最高の真実に従わないで涅槃は覚り得ない。」

この「空性」の会得こそが解脱であり、涅槃であると龍樹は説きます。

▽有部の涅槃
・択滅無為(無漏の智慧による煩悩の消滅)
心身法の集合体(有情)と潜在煩悩の法体との得(結合)を一つ断つごとに、一つ涅槃が得られるとします。全て断った場合、無学道となります。
▽有部の輪廻
ある有情が過去世に落射した法体が異熟因や増上縁として(業として)機能し、未来世の次元における新たな心身法の集合体の形成が引き起こされます。それが有部の輪廻転生観となります。