【大乗仏教】唯識派 認識の対象とは?
唯識派は、外界の実在を否定する際に、説一切有部・経量部などの原子論を否定しています。
○原子論
仏教で最初に原子論を導入したのは説一切有部と言われています。ヴァイシェーシカ学派からの影響もあったと思われます。しかし、有部の原子論はヴァイシェーシカ学派の原子論とは大きく異なるものでした。ヴァイシェーシカ学派、説一切有部、そして有部から分派した経量部の原子論を見ていきたいと思います。
○三種類の原子論に対する世親(ヴァスバンドゥ)の否定
「唯識二十論」において、上記の三つの外界実在論を順次に否定することによって、世親は唯識説の正しさを主張しています。
・ヴァイシェーシカ学派の原子論の否定
「対象の諸部分とは別に全体という単一のものはどこにも存在しない。」というのが世親の反論です。経量部も龍樹がよく用いたディレンマを用いて、次のように批判しています。
説一切有部の原子論に対する世親の反論は、
「空間的な拡がりを持たない原子の一つ一つは認識されないから、それが多数集まっても認識の対象とはならない。」です。
一方、経量部の原子論に対する世親の反論は、
「原子が一つの実体であることは立証することができないから、それが多数集まって粗大な形象を持つ集結体を構成することは有り得ない。」となります。これらの意味は陳那(ディグナーガ)が詳細に解説しています。
○陳那(ディグナーガ)の「認識対象の二条件」
有部・経量部の原子論は世親の『唯識二十論』のみならず、陳那の『認識の対象の要義』にも批判されています。陳那のこの小論は認識の対象の備えるべき二条件を明示して、その観点から外界実在論を吟味します。認識の対象は次の二条件を満たすものでなければならないとします。
第一の条件を満たすためには、その対象は実在でなければなりません。対象はまた、一つの認識を他の認識とは異なるものとして内容的に限定する要因でなければならないとします。説一切有部の学説を吟味してみると、相互に触れ合わずに集まっている個々の原子は実在であるから認識の対象としての第一条件は満たしています。しかし、個々の原子では第二条件である表象と同じ形象とはならない(八種要素が集合してはじめて、空間的拡がりを持つ上に、個々の原子は長・短・方・円・凹・凸のような形象パーツである)ため、有部の学説を正当とするわけにはいかないと、陳那は考えます。
経量部における原子の集合体(原子同士は互いに触れ合って集合している)には、個々の原子には見られなかった一つの大きな形象があるため、第二条件は満たしているように思えます。しかし、集結したものにある形象は、結局仮象であって実在するものではなく、それは表象に基づいて推理されたものです。実在しないもの(仮象)は認識の対象の第一条件を満たさないから経量部の学説も正しくないと陳那は考えます。
【補足】後の記事で説明する予定ですが、経量部は原子の集合体から得られた情報をもとに意識が形象を構成するものと考えます。つまり、外界側である原子集合体は意識内の表象と同じ形象を持つことはないのですが、ここでは認識対象となった状態=形象を持つとして話を進めているようです。
それでは何が認識の対象と認められるべきかというと、それは意識の中にある形象(表象)に他ならないという唯識説が示されます。陳那は「意識の内部に認識されるものの形があたかも外界のものであるかのように現れるが、その形が認識の対象である。」と主張します。認識の対象が、意識の内部にある形象(表象)であるということは、意識が意識自体を認識するということです。
暗闇の部屋に灯火を点ずれば、それまで見えなかった壁、天井などの対象が照らし出されると同時に、我々は灯火自体をも見ることができます。灯火は対象を照らし出すと同時に自己自身をも照らし出します。意識(識)にはこの灯火と同様の性質があると唯識学派はいいます。
照らされる対象とは、唯識思想では相分になります。他を照らすのは見分であり、自らを照らすのは自証分と証自証分の役割となります。しかし、陳那は阿頼耶識や識の四分説などを設定しなかったため、陳那の場合は単純に統覚(カント哲学における統覚)を表現しているようにも考えられます。
さて、世親と陳那による原子論批判ですが、認識論の立場で議論されるべき問題と本体の理論で議論されるべき問題が混同されていますね。特に、経量部の認識対象を否定する際に顕著にそれが感じられます。原子集合体が持つ形象は確かに仮象であり、形象としての実在性(本体性)はないにしても、それをイコール意識の認識対象とならない根拠とするには少々強引な気もしますが。