龍樹はアートマン(自我・真の自己)とカルマ(業・諸行)について以下のように説いています。
龍樹は主観的な本体・自性であるアートマンを認めません。そして、身心の源になる業(カルマ)もまた、客観的な固有の本体性・自性を持つものでなく、空性と説いています。つまり、身心の諸要素である五蘊とその源になる業は空なので、生起・消滅する特徴を有することになります。
○アートマンに関する同一性と別異性のディレンマを用いて
次回から、主に龍樹の「アートマン(自我)と五蘊(心身)に関する同一性と別異性のディレンマ」を例にして、中期中観派を見ていきたいと思います。ということで、今回は先にその龍樹のディレンマ自体に触れていきます。
このディレンマは、輪廻の主体として、アートマン(自我・真の自己)の実在性を主張する者達への反論になります。
アートマン(自我)が本体(自性を持つ)というのであれば、アートマンは身心と同一であるか、別異であるかのいずれかであると龍樹は主張します。龍樹の立場では、アートマンが本体である以上、ある部分は同一で他は別異であるという量化は認められないのです。故に、同一か別異かの選択肢しかありません。ここで、アートマンは身心と同一であると主張すると、「ならば、アートマンは身心の諸要素と同じく生起・消滅するもの(無常なるもの・空性なるもの)となり、自派のアートマンの定義と矛盾するものとなろう。」との反論が龍樹から返って来ます。この反論は適格と思います。
逆に、アートマンは身心と別異であると主張すると、「ならば、アートマンは身心の諸要素の特徴のないものとなろう。」との反論が龍樹から返ってきます。身心の諸要素の特徴のないものは存在しないということです。しかし、こちらの反論は反論として不十分に思えます。
身心と別異の自己・自我・アートマンを説くのは主にヤージュニャ・ヴァルキヤ、ヴェーダーンタ学派やサーンキヤ学派であり、彼らは世界外に、輪廻の主体として身心の諸要素の特徴を持たない常住かつ照明作用を持つアートマン(プルシャ)は存在すると説きます(サーンキヤ学派は、輪廻の主体についてはリンガとしていますが)。つまり、これでは、存在する、存在しないの言い合いになってしまうのです。アートマンについては、それが存在するかしないかではなく、各々が説く「輪廻のメカニズム」について徹底的に議論し合った方がよかったのではないかと思います。
さて、このような特徴を持つ龍樹の論理(特にディレンマ・四句否定)を、本当に中期中観派は通常の論理の形式に置き換えることができるのでしょうか?