【大乗仏教】シャーンタラクシタの有部・経量部批判
シャーンタラクシタは全ての哲学体系を「主観と客観とを共に実在するとする二元論」と、「客観の存在を否定して主観のみを実在とする一元論」とに大別します。仏教の学派で言えば、説一切有部と経量部が二元論に、唯識派が一元論に属することになります。また彼は、二元論の体系を無形象知識論を説く有部と、有形象知識論の立場をとる経量部とに分け、唯識派についても、有形象唯識派と無形象唯識派とに分けます。そこから、シャーンタラクシタは、有部・経量部・有形象唯識派・無形象唯識派のいずれの学派も、中観派の批判に耐えることのできないことを示します。
その批判の原理はただ一つ、「全てのものは単一性と複数性という矛盾する二つの性格をもつ」ということです。全てのものは、そのために最高の真実として存在すると言えない、即ち物質(客観)と同じように心(主観)も実在ではない、即ち、この境地に至って、龍樹(ナーガルジュナ)が主張したように全てのものが固有の本体を持たず、空であるという中観の真理が確立されるということです。
原子論への批判
有部と経量部において、物質を構成する原子(色法)は単一な実在であると主張されます。原子が集合して現象を構成する際、中央の原子が周りの十個の原子と結合するか(経量部)、結合しないまでも向かい合う(有部)とすれば、その中央の原子は十個の側面を持たねばならないことになります。しかし、単一で不可分な原子が十個の部分を持つことは不合理であると、シャーンタラクシタは批判します。この複合性を承認しないために、有部や経量部の原子論は、一つの本体が単一性と複合性との二つの矛盾した性質を持つと主張するところに追い込まれると。
有部の無形象知識論批判
有部の無形象知識論によると、心法(六識)は対象の形象を自身の内に含まない(心所法が外界をそのまま写し取った像を照らすだけ)とします。
我々の意識体験が構成されるにあたり、認識対象(の模写像)が客観となるためには、心法によって照らされなければいけません。それに対し、一方の心法が主観となるためには、他ののものが必要とならず、自己認識を兼ねていることになります。有部の定義では、本体は「一基体・一(種)作用」なので、心法が対象と自らの二つを照らすとなると自派の説に反することになります。
そもそも、無形象知識論は外界に形象を求めるたま、原子の本体性が否定されると同時に自ずと否定されることになりますが。
経量部の有形象知識論批判
経量部の有形象知識論の立場では、それ自身は知覚されない外界の対象が、心法に投げ入れた情報をもとに心法(直観心)は形象を構成するため、形象は心法の一部となっています。
その心法(直観心)の一部である形象を、次刹那の心法自身(判断心)が受け取って見るという自己認識の過程が、仮に外界の対象の認識と言われているだけとなります。
心法というものは非物質的かつ単一なものである一方、対象の形象は複合的な物質情報を元に構成されたものであるから複数的なものと言えます。シャーンタラクシタは単一な心法が複数的な形象を持つことは矛盾していると指摘します。原子論の批判と同じく、一つの本体が単一性と複数性という相矛盾する二つのものを持つことはできないということです。知識の単一性と形象の複数性のもたらす困難についての議論は、シャーンタラクシタ以前既にダルマキールティの『知識論評釈』に論じられていたとされます。
経量部の反論としては、形象の複数性が問題となるのは、あくまで認識としては第二義的な思惟においてであり、認識として第一義的な直観においては多様なままに全一であると主張します。そして、思惟は第二義的な認識であり、仮にそこで形象の複数性が知識の単一性と撞着したにしても、直観においてはその撞着はないため、問題はないとします。
認識として第一義的な直観においては多様なままに全一であるとはどういうことでしょうか。経量部の主張は次のようになります。
これに対するシャーンタラクシタの反論は次のようになります。
現代の認識学においては、経量部の言い分、シャーンタクシタの言い分のそれぞれに正しい箇所と誤りの箇所があると思います。しかし、経量部が説く有形象知識論ではシャーンタラクシタに十分に反論することができませんでした。
次回は唯識説への批判を見ていきます。