【大乗仏教】中期中観派
龍樹の論理が古代インドの論理学(ニヤーヤ学派やディグナーガの論理学)で表すことのできない異質的なものであったことは、五世紀以後の中期中観派にとってはかなり困ったことになっていました。この時代のインドは論理学と認識論が哲学の主流となってきた時代でもありましたので、中観派も自己の哲学思想を主張して他派と論争するためにも、その教義を論理的に発表しなくてはならなかったのです。
中期中観派の中では帰謬論証派と自立論証派の学者達が最も重要となります。これらの学者達によって中観派が二つの学派に分裂しました。インド仏教の思想史において、この時代は知識論の時代であったと言えるでしょう。特に、唯識派の(後に有形象唯識派と呼ばれる)陳那(ディグナーガ)と法称(ダルマキールティ)が登場し、認識論と論理学とを飛躍的に発展させました。帰謬論証派の祖である仏護(ブッダパーリタ)は陳那(ディグナーガ)に先立って生き、完成された仏教論理学を知りませんでしたが、彼は鋭い論理意識をもって中論を解釈し、帰謬法によって中観思想を論証しようと試みたのです。清弁(バヴィヤ)と月称(チャンドラキールティ)は法称(ダルマキールティ)の深遠な認識論は知らず、そもそも陳那(ディグナーガ)の認識論にも深い関心を寄せなかったとされますが、二人とも陳那(ディナーガ)の仏教論理学に対しては機敏な反応を示しています。
この時代の仏教の背景として、陳那(480-540)と法称(600-660)が経量部と有形象唯識派を統合し、経量唯識派を設立しました。中期中観派は唯識思想を取り入れず、龍樹の中論の注訳・理論化に力を注ぎました。
○帰謬論証
○自立論証
○龍樹の思想
上記3つの記事を先にご覧になっていただけますと、次回からの話が少しは分かりやすくなるかと思います。先に結論を申しますと、中期中観派は龍樹のディレンマや四句否定をインド論理学で表記することはできなかったのです。龍樹の論理の形式と本質は、彼の跡を継いだ中観者達に必ずしも彼の意図どおりに正しく理解されなかったと言えます。
前置きが長くなりましたが、次回から龍樹の「アートマンに関する同一性と別異性のディレンマ」を例に、仏護(ブッダパーリタ)の帰謬論証について見ていきたいと思います。