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Psychic Fifteen!

 わずかに散り始めた桜の花の上に、あたたかな日差しが降り注いでいる。しかし、そんな長閑かな空気をよそに、仁木七海の心の中には緊張と、そして期待がみなぎっていた。風に乗って体育館の中に舞い込んできた花びらの一枚が、ふわりと顔をかすめたのにも気づかないほど。
 新学期の初日、旭中学校三年生の生徒たちは、朝一番で全員が体育館に集められていた。理由は皆知っている、それは彼らがこの年度に、一五歳の誕生日を迎えるからだった。

「ねえねえねえ、七海は明日がもう誕生日でしょ? 一番乗りじゃない。どんな<力>サイキックになるのかしらね?」

 友人の坂口エリカが、後ろから七海の袖をくいくい引っ張って言った。

「私たちが今集められてるのだって、先生達が能力について何か話をするためでしょ。どきどきしちゃうわよねー」

「あたしはね、やっぱ念動力とか瞬間移動みたいな、便利な力がいいな! なんたってカッコいいし!」

 七海が思わず拳を握って叫ぶと、隣でぶーっと吹き出す声が聞こえた。

「お前相変わらずミーハーだな、ちゃんとニュースとか見てんのか? あんまり期待してると後で泣きをみるぞ、カッコいい能力なんか無理に決まってるだろ」

 七海がさっと声の方に顔を向けると、森橋朗がけらけら笑っている。昔からの幼なじみを、七海は容赦なくぶった。朗の背は七海とそう変わらないし、体格も男子にしては華奢だ。きゃーやめてー暴力ハンターイ、と変な裏声で叫ぶと朗はまた笑い声をあげる。子供みたいに舞い上がっているのがまるで自分だけのようで、七海は頬が熱くなるのを感じた。

「もーあきらはうるさいなぁ、なによ、そんなこと言ってるアンタだって明日が誕生日じゃん! ヘンな<力>サイキックになっちゃって泣いて後悔すればいいのよ!」

 朗は器用に左右の眉を上げ下げして見せると、フンと鼻を鳴らした。

「いや、どんな力になったってどうでもいいよ。俺はそもそも期待なんかしてないし、おまえと違って」

 明らかに小馬鹿にされているのを悟って七海はむうっと頬をふくらませる。

「うるっさいわね! いいじゃないのべつに夢を抱いたって!」

 ぎゃいぎゃいと騒ぐ彼らに向かって、鋭い声がかけられた。

「静かに!」

 しん、と静まり返った生徒たちの列の前には、眼鏡をかけ白衣を羽織った若い女と、中年にさしかかった年頃の体格のいい男の、二人の教師が立っていた。
 女教師がまず口を開いた。

「新学期早々にお前たちを集めたのは他でもない、皆がすでに知っての通りの、あの力についての注意をするためである!」

 ごく、と七海の喉が思わず鳴った。
 「あの力」。それは、十五歳となったその日に、すべての人間に現れる能力のことだった。
 科学では説明のつかない、いわゆる超能力と呼ばれるような不思議な力が得られる。そのことが判明したのはつい数年前のことで、詳しく調べてみるとそれはすべて、十五歳の誕生日を境に起きているのだということだけがわかっている。また力が発現しているのは三十代あたりの人間からで、それ以上の年齢の人間に力が見つかったことはこれまでにない。
 しかし、では正確にはいったいいつから、そんなことが起きていたのかは、今になってもわかっていない。何故なら────。

 では岩山先生、お願いしますと白衣の女教師が声をかけた。しゅぱ、という音とともにいかつい教師のポケットから取り出されたのは、一個のレーズンパンだった。岩山と呼ばれた教師は右手にパンを持ち、左手の人差し指を眉間に当て、じっと精神統一をはかっている。

「……じゅうろく!」

 しばらくの沈黙の後、岩山はハアッという気合いとともにそんな言葉を吐き出して、額の汗を拭った。

「はいはい、ちゃっちゃと数えた数えた」

 レーズンパンを差し出された列の先頭の男子生徒が、パンを細かくちぎっては、中から干しぶどうを探し出してカウントする。

「……十六個です」

 お、お~……という、超微妙な歓声が周囲からわき起こった。ぶどうを数えさせられた生徒は、指をしゃぶりながらしょっぱい顔をしている。
 白衣を着た女教師は何故だか胸をはった。

「どうだ!」

 どうだと言われても。

「どうしようもないだろう!」

 確かに。
 満場一致の空気が体育館に満ちた。

「いいかー、これがお前たちに与えられる<力>サイキックの実態だぞー!」

 女教師は声をはり上げた。

「お望みならこれを透視能力と呼んでもいいかもしれないがな。これが透視ならあたしの力なんか空中浮遊だぞ。見ていろ」

 腕組みをした教師はそのまますっ、と姿勢を正した。七海は前の生徒たちの間をぬうようにして、彼女の足下をのぞき込んだ。
 確かに、浮いている。
 床から、十センチほど。

「あのー、三宅先生、それってもうそれ以上は浮かないんですか?」

 一人の生徒の質問に、三宅と呼ばれた女教師は重々しくうなずき、トンと音を立てて床に降り立った。

「ちなみに浮くだけで、その場から動くことはできない。おまけにこの浮遊は、体育館の床でしか使えないんだ。ああ、ついでに言うと、岩山先生が透視できるのはレーズンパンの中の干しぶどうのみに限られる」

 ええーっとかなんだそりゃという声があちこちからあがった。三宅はそんな周囲の声を無視して続ける。

「ここで全員によーく言っておくからな。十五歳になったその瞬間に、すべての人間が何らかの力を得られることだけは確かだ。まあ、呼びたければ超能力と呼んでもいいかもしれない。だがな、それらの力は間違いなく、こういった類のショボい能力だ。だいたい力の内容があんまりにもショボいせいで、判明させる事自体が困難なんだからな。だから今現在になってすら、いつからこういった力が得られるようになったのかがわかってないんだ。だからお前達が力を得ても、それがどんな力なのかがまず不明な上に、もしどんな力なのかわかったとしても使い道はほぼないし、万が一使い道があったとしても、それが役に立つことは皆無だぞ」

 レーズンパンの中の干しぶどうの数が透視できたからといって、いったいそれが何になるのか。目の前でそのどうしようもない能力を見せつけられた生徒たちは、我知らずに皆大きなため息をついた。ニュースやネットの情報などで一応聞き知ってはいたが、こうやって実際に目の当たりにすると、がっかり度合いがハンパない。三宅は話を続ける。

「この<力>サイキックのことがわかってから、全国でこれまでずっと統計を取ってきてはいるが、何か役に立つような力が見つかったという報告はいまだにない。おまけに力の種類には法則性もないし、二人以上の人間が全く同じ力を得たという話も聞かない。その上、あたしの浮遊や岩山先生の透視のように、特定の状況下に限定して発動する場合がほとんどだ。力そのものには危険性はまずないが、それがいったいどんな力なのか、その内容をきちんと確かめずに判断すると、思わぬ事態を引き起こすかもしれない。くれぐれも、軽率な行動をとらないように」

 例えば家の部屋で宙に浮かぶことができたからといって、いつでもどこでもそうなるとは限らない。調子に乗って、いきなり窓の外に飛び出してみたりなどしないことだなと三宅は真顔で言うと、列の先頭の生徒たちにプリントを配り始めた。

「ここに能力についての注意書きがあるから、各自ちゃんと読んでおくように。また、それぞれの力のデータを教育委員会に送るから、もし能力が判明した場合には、担任の先生かあたしのところに報告に来ること。何か不明なことがあった場合も、あたしが保健室にいるから相談に来てかまわないぞ」

 カッコいい念動力など、やはり夢のまた夢というわけだ。七海は配られたプリントをろくに見もせずにくしゃくしゃと丸め、大きなため息をつく。

「仁木っ!」

 いきなり大声で名前を呼ばれ、七海は思わず首をすくめた。

「お前、明日が誕生日だっただろう」

 三宅が、眼鏡の奥からこちらを鋭い視線で見つめている。

「ヘンに能力に期待なんかするなよ。あと、もしそれらしき力を見つけても、それがどんな力なのかを勝手に判断しないこと。いいな」

 皆の前で、お前は軽率だから気をつけろと言われたのに等しい。隣で朗が笑いをこらえている気配を感じながら、七海はしぶしぶハイと返事をした。


「な・な・みーーっっ!! いいかげんにおきなさーーーいっ!」

 夢うつつの意識の中に、激しい調子の母の声が飛び込んできた。  
 あの声はヤバい、かなり怒ってる。そう判断した七海はやっと、重たい瞼をこじあけた。さんざん三宅から注意を受けたのにも関わらず、自分はどんな力が得られるのかと妄想、もとい思いめぐらせていて、昨夜はなかなか寝付けなかったのである。
 しかし七海がもぞもぞと体を起こしかけたところで、すごい音を立てて階段を上ってきた母親が部屋のドアを勢いよくぶち開けた。

「三年生にもなったっていうのに、起こされるまで寝てるんじゃないの! しかもアンタ今日は誕生日でしょ! いい加減自分のことは自分で出来るようになりなさい! 早く起きて!」

 へーい、といい加減な返事をしてベッドから起きようとしたとき、七海の目に母親の姿が飛び込んできた。
 目の前で目をつり上げて怒鳴っている母親、そしてその胸のあたりに浮かんでいる、握り拳程度の大きさの球体。
 透き通ったそれは、内側から発光して真っ赤に輝いている。そしてその輝きは、母親の怒鳴り声に合わせて明滅を繰り返しているのだった。

 なんだこれは。

 誕生日の朝にいきなりこんなものが見えるようになったのだから、これが自分に与えられた能力なのは間違いない。しかしこの球体は一体なんだろう。
 赤く輝く光に七海が目を凝らした時、球が一層強い光を発し、そして同時に母親のでかい雷が落ちた。

「ぼんやりしてないで早く着替えなさい!」

 これって、もしかして、ママの“怒り”が形になってる?
 まさか、自分は他人の感情が見えるようになったのだろうか。もしそうだとしたらショボいどころではない、大した能力である。七海は跳ね起きると、パジャマのまま階下へと走った。

(これが、あたしの力だ。あたしにはやっぱり、人の感情が見えてるんだ!)

 その思いは、父親の姿を見たときに確信に変わった。テーブルについてコーヒーを飲んでいる父親の前に浮かんでいる球体は柔らかなグリーンで、父親はその色彩をそのまま表情にしたような穏やかな顔で、彼女に微笑みかけてきたからだった。

「……パパおはよ。もうご飯食べ終わったの?」

「おはよう。なんだ、七海はまだ着替えてもいないのか? ママがさっき起こしにいっただろ」

「うん、まあね。誕生日の朝だってのに、早く起きろってすごい勢いで怒られたよ」

ぶつくさ言う七海に、父親はくすりと笑ってコーヒーを飲み下した。

「お前こそ、誕生日の朝くらい早起きしたらどうなんだ。まあママは、朝食抜きダイエットとやらを始めたらしいから、いつもよりもイライラしてるのかもしれないぞ」

「また新しいダイエット? そっか、それでママってばあんなに怒ってたのかな。八つ当たりじゃない!」

「そんなに怒ってたのか?」

「うん、だって球が真っ赤にな」

 そこで七海は慌てて言葉を濁した。感情が見えるなどというすごい力は、どうせなら秘密にしておきたい。誤魔化すために急いで椅子に座ると、がつがつと用意されていた朝食を口に詰めこむ。
 お前も朝はちゃんと自分で起きなきゃダメだぞという父親の説教は、彼女の耳にはまったく入っていなかった。

(あたし、もしかして、すごい力を手に入れちゃったのかもしれない……!)

 朝食もそこそこに、七海は隣の朗の家をおとずれた。七海と朗は、朝は二人で連れ立って登校している。それはもうずっと、それこそ幼稚園の頃からの習慣だ。

「おばさん、おはようございますー。あきらは起きてますか?」

「あらナナちゃんおはよう、いつもありがとねー。うちの子ってばいつまでたっても朝起きられなくて困っちゃうわね、十五にもなったっていうのに」

 いつも穏やかな印象の朗の母の胸の前には、どこか青みがかったような緑の光球が浮かんでいる。七海はとりあえず自分のことは棚に上げ、まったくですねと相づちをうった。

「そういえばナナちゃんも十五歳になったんでしょ? お誕生日おめでとう、どんな<力>かもうわかったの?」

 朗の母は、幼なじみの七海の誕生日のこともきちんと覚えていてくれた。まだだと七海が言うと、朗の母はそんなすぐにはわかんないわよねえとおっとり笑った。
 七海の両親もそうだが、朗の母も能力が現れない世代の人間である。能力の実態が大抵アレなこともあるせいか、その世代の人たちはあまり<力>の内容に関心はないらしい。深く追求されず、七海はほっとした。

「あ、私、朗を呼んできますね!」

 七海は朗の部屋のある二階へと上がる。
 朗も今日が誕生日だ。彼は一体どんな能力を手に入れたんだろう。もう、どんな力なのかわかっているんだろうか?

「あきらー、入るよー」

 いつものように遠慮なく部屋にずかずか入った瞬間、七海は思わず息をのんだ。
 制服のシャツのボタンを止めかけている朗、その半ばはだけた胸の前に浮かぶ、光の球。その球が、真っ赤な輝きを放っていたからだ。
 そして七海を見た瞬間、朗はいきなり誰かに殴られたかのような顔をした。

「なっ、七海?! お前、どうしたんだよ!」

「何言ってるの、だって毎朝いつも呼びにきてるじゃない」

 朗は慌てたように声を荒げ、そしてそれとともに球体もその赤い輝きを増す。
 七海はわけも分からず困惑した。この球がこんなに赤く光っているということは、朗は何かに怒っているのだ。朝っぱらから何にだ。
 七海は思わず朗の顔をまじまじと見つめた。小さい頃からずっと一緒だったから、今まで意識したことはなかったけど、そういえば朗はすごく整った顔をしている。

(この顔を崩しまくってあたしのことをからかってばっかりだから、いつも台無しだけどね)

「ねえあきら、何か嫌なことでもあったの? 怒ってる?」

 七海はとりあえず朗に直接訪ねてみた。

「いや、別に何もないよ? いいから早く学校行こうぜ、遅刻する」

 朗はぷいと顔をそらして口早に言い放った。だが七海には今、彼の前に浮かぶ真っ赤な光の球が見えている。
 ────今まで、朗があたしに隠し事したことなんかなかったのに。
 思いがけず、七海はショックを受けていた。
 朗は怒ってるのに、なのにそのことをあたしに隠してる。なんで怒ってるのかを、あたしに言うつもりはないんだ。
まさか。
 七海はふと、ある可能性に思い至った。
 あたしが、朗を怒らせているのだろうか。
 あたしは、朗に嫌われているのだろうか────?

 学校への道すがら、朗はずっと口を開かなかった。なんとはなしに話しかけにくくて、七海は横からちらちらと朗の様子をうかがうことしかできなかった。光球はどうやら、相手が自分の方を向いている時にしか見えないらしく、今は胸の前にあの光はない。隣に目をやるたびに、見えるのはいつもより少し無愛想な、朗の横顔だけだった。
 どくどくという何かの音がずっと耳の中で鳴っていて、うるさいと半ば無意識に思って、そしてその時になって七海はようやく、それが自分の心臓の鼓動であることに気がついた。
 七海は通学鞄をぎゅっと握りしめた。いつもよりずっと重い、ような気がした。


 気まずい時間を過ごし、ようやく教室に入った時、七海はほっと息をついた。朝、力のことに気づいたときの興奮は、すっかりどこかにいってしまっている。しかし七海が席に着くと、待ちかまえていたようにエリカがたーっと駆け寄ってきた。エリカの胸の前には、綺麗に透き通った緑色の光球が浮かんでいる。

「おはよう七海! ねえねえ、どんな力かもうわかった?」

 七海は答えようと口を開いたが、出てきたのは大きなため息だけだった。
 <力>を得られることを昨日はあんなに楽しみにしていたのに、<力>が見つかったら真っ先にエリカに報告するつもりだったのに、どうしてか今はとても、そんな気分にならない。
 七海のそんな反応は、能力がまだわかっていないことへの落胆だとエリカは思ったようだった。七海の肩を軽く叩いて、慰めるように言う。

「七海、<力>がまだ見つからないからってそんなに落ち込まなくても大丈夫だよー、昨日三宅先生達も言ってたじゃない、見つかるかどうかはわかんないって」

「うん」

 七海はぎゅっと拳を握る。

「……ねえエリカ、今日の森橋っていつもと何か違う? 怒ってるように見える?」

「うーん、別にあんまりいつもとかわんない様子だけど……。なあに、ケンカでもしたの? 珍しいじゃない」

 エリカの言葉に、つい顔を上げた七海の目が、こちらを見ていたらしい朗の目とばちりと合った。朗は七海と目が合うと、すぐさま視線をよそにそらした。ずくん、と間違えようのない痛みが胸を刺すのを七海は感じた。
 あたしは、朗に嫌われているのかもしれない。そのことが、こんなに、こんなに、こんなに辛いなんて。
 七海はその日、なるべく人と向かい合わないようにして過ごした。あの赤い光をまた見てしまったら、朗に嫌われているのが、確かなことになってしまうような気がして。

 その日の夕食の席での母親は、朝とはうって変わって上機嫌だった。その胸の前の光球も、きらきらと弾けるような緑色に輝いている。
 テーブルの上には、七海の誕生日祝いのご馳走がところ狭しと並んでいた。

「ごめんね七海、パパは今日は夕飯には間に合わないって。先にお祝いしちゃいましょ。実はママ、かなり夕飯前につまみ食いしちゃったのよねー」

 ふふふと母親は笑い、それなのに彼女はテーブルの上の夕食もしっかり口に運んでいる。そんなことで朝食抜きダイエットの意味はあるのかと七海は思ったが、まあ母親が様々なダイエットに手を出すのはいつものことである。唐揚げをぱくつきながら母親はふいに言った。

「そういえば私、若い頃からいろんなダイエットを試したけど、痩せる効果があるといったら何といっても、恋をするのがいちばんだったわあ。相手のことを考えると、胸がいっぱいで食欲なんかわかなくなっちゃうからねえ」

 恋、という単語を聞いた瞬間に、七海の頭に唐突に朗の顔が浮かんだ。肺が、自分の意志などお構いなしにいきなり息を吸いこむ。箸を持つ手が止まった。

「あらやだ七海ってば、せっかくの誕生日祝いなのにちっとも食べてないじゃない」

 母親はのんきに笑っている。七海は曖昧に笑って見せて、無理矢理口の中のものを飲みこんだ。胸の中にふいに、重たいかたまりが出来たような気がする。

(あたし、朗のことが好きなのかもしれない)

 朗に嫌われている今になって、なんでこんなことに気がつくんだろう────。


 翌朝、七海はかなり早い時間に朗の家を訪れ、インターフォン越しに朗の母に、今日は用事があるので先に学校へ行くと告げると、足早にその場を離れた。朗の前に、またあの赤い光があったらと思うと、どうしても彼と顔を合わせるつもりにはなれなかった。
 しかし学校に着き、昇降口で上履きに履きかえようとした瞬間、七海の体の脇にだんっと勢いよく手が置かれた。

「あきら……」

 朗はずっと走って七海を追いかけてきたのか、息を荒げて苦しげにこちらを見ている。そして、胸の前には、今日も赤く輝く光球。
 やっぱり、朗はまだ怒ってるんだ。
 七海は思わず朗から目をそらした。だが朗の次の言葉は、予想を裏切るものだった。

「……七海、お前昨日から、一体どうしたんだよ? 何か、俺に怒ってるのか?」

 七海がぱっと顔を上げると、朗の光球はますますその明るさを増していた。まるで血の様な、真っ赤な輝きを放って脈打っている。
 なんなのよ、そんなに怒ってるのは朗なのに、自分だってなんで怒ってるのか、あたしに理由を言いもしないくせに、なんであたしが朗に責められなきゃいけないの。

「怒ってるのはあきらの方じゃない!」

 つい大声が出てしまう。胸の中にあるかたまりがぐうっと喉にこみ上げてきそうになるのをこらえようと、七海は必死で朗を睨みつける。何か言い返してくるかと思った朗は、しかし息を荒げてこちらを見つめているだけだった。朗は無言のままふいにうつむく。その顔がやけに青白い。

「な、なみ……」

 そして七海の目の前で、朗はへたへたと床に倒れ込んだ。

 保健室が昇降口のすぐ側にあったのが幸いし、七海はすぐさま三宅を呼び、なんとか二人で朗をベッドへと運び込むことができた。

「せんせい、みやけせんせい、あきらはだいじょうぶ? 死んじゃったりしない?」

 すでに半泣きになっている七海にはかまわず、三宅はてきぱきと朗の瞼をひっくり返したり、血圧を計ったりしている。
 ひと通り朗の体を調べ終わった三宅は答えないままため息をつき、そしておもむろに部屋の冷蔵庫からゼリー飲料食をいくつか取り出すと、ぽいぽいと朗の上に放り投げた。

「体はどこも悪くないぞ、症状としては軽い貧血とめまいくらいかな。まあ森橋がへばった原因は、とりあえず腹の減りすぎだ」

「……はっ?」

 思いも寄らぬ返答に、七海の喉から間の抜けた声がもれた。そこへさらに、ぐぐう~っという朗の腹の音が重なった。

「いきなり固形物ってのも胃の負担になるからな、まずはそれでも飲んでおけ」

 朗は三宅の言葉に従って大人しくゼリーをすすっている。七海がほうっと息をついたときに、三宅が言った。

「……何があったか知らないが、お前らとりあえずお互いにちゃんと話をしろ。あたしはとりあえず職員室に行って、担任に遅刻の事情を説明してきてやるから、それまでにな」

 三宅は普段の荒っぽい調子が嘘のように優しく笑いかけると、ベッドサイドのカーテンを引いて保健室を出て行った。

「なさけねー……」

 七海がベッドの隣に腰掛けると、ゼリーのパウチを片手に持ったまま、朗が呟いた。二つほど一気にゼリー飲料を飲んで、どうやらひとまずは落ち着いたらしい。七海の方を向かないまま、ぼそぼそと言葉を続ける。その頬が、今はほのかに赤らんでいるのに七海は気づいた。

「……俺さ、どうやら<力>で、人の感情がわかるようになったらしいんだ。別に頭の中がぜんぶ読めるとかいうんじゃないけどさ、なんとなく伝わってくるっていうか、考えてることがわかる感じ? あの朝、お前が部屋に入ってきた瞬間、まるで俺が何かしたみたいなショックがお前から伝わってきてびっくりしたんだ。なんでそう思われたのか心当たりないし、その後もお前が俺のことを見るたびに、悲しくなったり嫌な気分になったりしてるのが伝わってきて、気になって仕方がなかった」

 それで飯が食えなくなるなんて情けねえよな、と言って朗は照れたように笑った。

 ────俺、お前に嫌われたのかも、と思ったんだ。

 ぽつりと呟かれたその声はとてもかすかなものだったけれども、七海の耳にはちゃんと届いた。胸の中の重たいかたまりがゆっくりと解けて、流れていくのがわかる。
 七海もそこで、朗に誕生日の朝のことを説明した。
 人の体の前に、光る球体が見えるようになったこと。母親と父親のそれぞれの球体の色の違いから、それらは人の感情なのだとわかったということ。

「相手が怒ってるときには、胸の前に真っ赤な球が浮かんでるんだ。あの日の朝からずっと、あきらの前に赤い球があるのに、なのにあきらが、何に怒ってるのかあたしに言わないから。だからあきらはあたしに怒ってるんだと思って」

 ふいに朗が起き上がり、七海の言葉を遮った。

「何言ってるんだ、俺、怒ってなんかいないぞ? あの時だって、そう言ったじゃないか!」

「だったらその赤い光は一体何なのよ!」

 だからあたしも、あきらに嫌われたのかと思ってたんだもん。
 言葉が口からこぼれた。
 七海と見詰め合った朗の目が一瞬大きく見開かれ、ついで頬が赤く染まった。自分の頬も、同じように熱を持っていくのがわかる。

「七海……俺……」

 朗がおずおずと口を開いたその瞬間、カーテンの向こうから冷静な声がかけられた。

「話を聞いた限りでは、仁木のその力は感情が見えている訳じゃないな」

 そこには職員室に行った筈の三宅が、何食わぬ顔で立っていた。

「ちょ、ちょっと先生?! いたんですか? ひどい、立ち聞き? 一体いつから」

「最初からだ」

 焦る七海の抗議を聞き流し、さらっと三宅は言い放った。

「いや、お前らのごたごたが単なる痴話喧嘩なら放っとくんだがな、どうやら能力がらみのようだから話を聞かせてもらったんだ」

 一応そう取り繕ってはいるものの、興味本位だったのは間違いない。だいたい痴話げんかって何よ。七海はニヤニヤしている教師を見てふくれた。

「それはともかく、仁木に見えてるのは他人の感情じゃない。おそらくそれは、空腹感だ」

 思いがけない言葉に、七海はぽかんと口を開けた。その顔を見て、だから軽率に力の内容を判断するなと言っただろうと教師は言う。

「仁木の母親は朝食を摂ってなかったんだろ? 朗もそうだな。腹が減っていると赤い色の球、満腹すると緑。もしかしたら色の変化は血糖値か何かに対応しているのかもしれないが、目に見えるような力と違って感覚系の能力は検証が難しいから今は確かなことは言えん」

 まあきちんと調べるほどの有用性もなさそうだがな、と言って三宅はニヤリと笑った。なんとなくおもしろくなくて七海は反論する。

「だって、相手が怒るとそれで光が強くなったりとか、怒りに合わせて光がついたり消えたりしてましたよ? 空腹感にそんな風に、光が反応するんですか」

「だからきちんと検証しないとわからないと言ったろ。まあその明滅は、呼吸に対応しているのかもしれないな。呼吸するだけだってカロリーは消費するんだし、その分腹が空いて輝きも増すんじゃないか?」

 何か言い返そうと口を開きかけたが、答える言葉が出てこない。ぱくぱくと七海は口を開け閉めした。

「とりあえず森橋の球体の変化を見ているんだな。森橋、そのまままたその飲料を飲んでみろ」

 朗が素直にゼリーを口に運ぶ。朗の胸の前を見た七海は、心の底からがっかりした。
 さっきまで真っ赤だった光球が、今はだいぶその赤さがうすらいでいる。そして朗がゼリーを飲み下すとともに、球体の色はだんだんと緑へと変わっていった。

「……ホントだ……」

 病気じゃないならさっさと戻れ、と保健室を追い出された二人は、ぷらぷらと教室へと向かった。朗は、食料の手持ちはこれしかないと三宅に渡されたレーズンパンを、微妙な顔でかじっている。

「あーあ、あたしの力、結局ショボい能力だったのか……」

 七海がぼやくと、すっかりいつもの調子に戻った朗が、隣で明るい笑い声をあげた。そういえば、三宅に遮られてしまったが、あの時朗はなんと言葉を続けるつもりだったのだろう。
 もし朗が、自分と同じことを考えていたら。七海はなんとなく照れくさくなり、茶化すように朗に声をかけた。

「そ、そういえば人の感情がわかるのが、あきらの力の方だったなんて悔しいな! 空腹感が見えるなんて力より、よっぽど役に立つじゃない!」

「うーん、俺の力も、たいして役には立ちゃしないと思うぞ」

「えーなんでよ、おねだりするまえに親の機嫌うかがったりとかテスト期間前に先生の動向調べたりとかクラスメートの恋愛事情リサーチとかいろいろ役立つかもよ?」

 七海が言うと、お前考えつくことがセコすぎないかと朗は苦笑した。

「俺の<力>サイキック、そういう役には立たないんだよ」

 ────お前のしか、わからないから。

 朗はぽつりと言い捨てて、そしてふいに足を速めてすたすたと先を歩いてゆく。隠すように背けられたその横顔が、またほのかな赤に染まっているのが見えた。
 七海は廊下に立ちつくす。朗の言葉が、胸の内にゆっくりと沈んで溶けて、そして心臓の鼓動がまた、耳の中でうるさいほどに鳴り出す。
 自分の顔が、あの光球よりもなお赤くなってゆくのが、七海にはわかった。

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