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スパコンおばあちゃん

 ボタンを何度も押し間違えたせいで、正しい番号に電話をかけるまでにずいぶん時間がかかった。意志の力を総動員して指の震えを押さえ込む。受話器の向こうで呼び出し音が鳴る。その音が永遠に鳴っていてくれればいいのにという考えがちらりと頭の片隅をかすめ、つまりはそれが自分の本音なのだという事実を、俺は否応なしに悟る。
 これは単に電話をかけて話をするだけ何も罪に問われるようなことじゃないこんなのに騙される方が悪い。今まで自分に言い聞かせてきた言葉は全部、全部自分を誤魔化すためだけのものだったのだという、圧倒的な真実に俺は打ちのめされる。
 唐突に「もしもし?」という声が受話器から聞こえた。かなり年をとった女性の声だが、その響きは意外にしっかりしている。
 ごめん俺会社で三百万の損害を出しちゃって訴えるって言われてるんだ今すぐ穴埋めできたら損害賠償は請求しないって俺の給料からいずれ立て替えるから今だけでも少し貸してもらえないかな他にもうどうしようもなくて俺今すごく困ってるんだ。
 相手が電話を取ったらすぐさま、ぐしゃぐしゃに泣きくずれた声で動揺させて、その後は考える隙を与えずにこっちの話に引きずり込まなきゃいけない。なのに俺の喉はひりついて、一言も言葉が出てこない。
 俺の脇腹を隣にいる男が軽く小突いた。早く芝居にかかれという合図だ。バイト先で親しくなった彼に誘われて、俺はろくに中身も聞かずに、この仕事の話に乗った。

 相手のおうちにお電話をかけるだけの簡単なお仕事です。

 怪しいとは思わなかったと言えばそれは嘘だ。だが高額の配当を約束され言葉巧みに流され断るきっかけを逃して、そうして俺は今、嫌な汗が滲む手で受話器を握りしめている。
 俺を誘った男は、隣で電話の様子を伺っている。初めて電話をかける俺の監視と、上手くいったときに会社の人間を装って電話を代わる役とを兼ねているのだ。
 無言のままの俺に男がいらだった身振りをして見せた時、電話の向こうの静かな、しかしきっぱりとした女性の声が言った。
「……孝之かい?」
 全身の血が一気に冷えた。それはまさに、俺自身の名前だった。
 電話をかける相手の名前も家族構成も、きちんと調べあげられている。相手の身内に孝之という人間はいない。たまたま電話をかけた相手が口にした名前がたまたま俺の名前だった、そんな偶然は俺には信じられない。
 何より、俺は相手の声に聞き覚えがあった。
「……ばあ、ちゃん?」
 予定外の俺の言葉に男が顔をしかめるが、俺の目にはもうそんなものは映っていなかった。
「孝之、あたしだよ、あたし」
 おばあちゃんだ。おばあちゃんの声だった。
 聞き間違えるはずがない。共働きの両親に代わって、俺はずっとおばあちゃんに育てられたのだから。
 どんな遊びも一緒に付き合ってくれた。悪さをしたら本気で叱られた。俺の隠し事なんかはみんなお見通しだった。元気で物知りで幼い俺がききたいことは何でも教えてくれて、おばあちゃんは世界に一台しかない、最高のスーパーコンピューターだった。
 受話器を握った手が、今度は押さえようもなく震え出す。おばあちゃんはいつだって強くて優しくて正しくて、そして他人を傷つけるようなことだけは絶対に許さなかった。
 おばあちゃんの孫がこんな俺のはずがない。こんなことをしているような俺が。
「孝之、聞きなさい」
 懐かしい声が言った。一昨年死んだ、おばあちゃんの声が。
「孝之、あんたがそんな子じゃないのはあたしがちゃーんとわかってる。人は誰でも、道を踏み外しかけることがある。どんな人も、巡り合わせでそうなってしまうことはある」
 口元がわなわなと震えた。
「孝之、道に戻りなさい。あんたは大丈夫、」

 あたしの、孫なんだから。

 耳元にそんなささやきを聞いて、そして俺は、電話がすでに切れていることにその時になってようやく気が付いた。隣の男が、やれやれといった調子で肩をすくめた。
「ま、初めてだからしょうがないな。次はもっとうまくやれよ」
 俺は、静かに受話器を置いた。
 深く息を吸って、次に彼に言うべき言葉を、口に乗せようとする。ここまできて仕事を断ったらどんな仕打ちをされるかしれない。だが俺は、言いようのない安堵が全身を満たすのを感じていた。
「────なんでもお見通しだったんだ────」
 俺の呟きに、男がけげんな顔をする。
 おばあちゃんは今でも、俺のスーパーコンピューターだった。

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